第3話 再会の年
今年もまた、納涼祭の日がやってきた。
「イリッツァ。今日くらい、祭りを楽しんできなさい」
「ぇ……」
眩しい陽光が降り注ぐのをこれ幸いと、大きなシーツを予備の分までしっかりと洗って干し終えたイリッツァに向かって、少し困ったような顔でダニエル・オームは声をかける。
「でも――」
「大丈夫ですよ。貴女が張り切って朝から洗濯をしてくれたおかげで、もうここに仕事はありません。教会には私がいますから、来訪者の対応も問題ありません」
眼鏡の奥の飴色の瞳は、いつも通り慈愛に満ちている。
「貴女はとても勤勉で、敬虔な信徒ですが――まだ、十五にもなっていない、年端もいかぬ少女でもあるのです。年に一度の、ただ夏の涼を取ることを目的としただけの、宗教色のないお祭りくらい、歳相応に楽しんでも罰は当たりませんよ」
「は、はぁ……」
(俺、精神年齢だけなら三十路近いんだけどな……)
後ろ頭を掻きながら、心の中で呟いてみても仕方がない。
ダニエルには、言葉に出来ないほどの恩がある。教会の前に捨てられていた見ず知らずの赤子だったイリッツァを拾って養育し、まるで血のつながった父のように愛情を注いでくれた。
昔の父親には、どれほど求めても返してくれなかった、家族の愛――
初めて知るそれは、どこまでも温かくて、心地よくて。
(祭りを『楽しむ』――か……)
俯いて小さく苦笑してから、いつもの完璧な微笑を浮かべて、顔を上げる。ここで素直に言うことを聞くのも、親孝行の一つだろうか。
「はい。わかりました」
従順に頷きながら、胸の奥にしくり、と痛みが走るのを気づかないふりをした。
あの日、生まれて初めての『楽しい』を教えてくれたカルヴァンには、きっと、もう二度と、会うことはできない――
◆◆◆
「うっわ……信じられません。団長、もしかしてこんな日まで仕事するつもりですか?納涼祭ですよ?」
ドン引きした顔で童顔の補佐官が言ってくるのを、王国騎士団長カルヴァン・タイターは書類から顔を上げて睥睨した。
「部下に強要しようとは思っていない。行きたいなら好きにしろ」
「もう……ワーカホリックもいい加減にしてくださいよ……部下が休みにくいでしょう。いや、俺は休みますけど」
なおもリアムが恨みがましくぶちぶちと言ってくるが、無視して再び書類へと視線を戻す。
「確か、今は、そんなに根を詰めてやらなきゃいけない仕事はなかったはずですよ。この前の遠征の報告資料はもうまとめ終えましたし……あ。王女様からのお手紙はまた来てた気がしますが」
「絶対に御免だと返しておけ」
「王族にそんなこと言えるわけないじゃないですかぁ~」
泣き言など聞きたくない。
カルヴァンは無視して最後の書類にサインを書き込んでから、諦めて立ち上がる。
「あ、終わりましたか?祭りに繰り出します?もうすぐ夕暮れだし、きっと今頃ステージでは火のアートの準備が進んでますよ。女の子だって、今日はエルム様もお目こぼしくださるって言って、少し露出の多い華やかな装いの子が増えるんです。きっと団長が街に行けば、一瞬で黄色い声に囲まれて――」
「下らない。部屋に戻る」
「あっ、団長!」
何やらうるさく外へ連れ出そうとする補佐官をあしらって、さっさと執務室を出る。
リアムの魂胆など、わかっている。常日頃から根を詰めて働きすぎるカルヴァンの体調を心配し、たまには気晴らしをしてほしいと言うことだろう。軽口を叩いているように見えて、その根底には優しさが横たわっていることなど百も承知だ。
だが、わかってはいても、素直に頷く気持ちにはならない。
カルヴァンは誰とすれ違おうと殆ど挨拶も返さず、鬼神と称されるに相応しい強張った厳しい顔で、自室へ一直線に向かった。
その昔『奇跡の部屋』などという下らない呼称で呼ばれていた自室のドアノブを回して開けば、十五年前から何一つ変わらない光景が、いつもの通りカルヴァンを迎え入れてくれる。
『ヴィー!?』
しかし、あの日と同じくノックもせずに勢いよく開いたのに、当然、驚いた顔で机から立ち上がる少年の姿などない。
「チッ……クソ……」
忌々し気に口の中で毒ついて、ごろり、と簡素なベッドに身体を投げ出す。
リツィードとの想い出が全て詰まった部屋は、ことあるごとに様々な記憶を蘇らせた。
脳裏を幻覚のように一瞬過ったのは、親友の人生で最後となった、十五年前の納涼祭の日の記憶。
(あの日も、結局、アイツはずっと、妙な顔をして……初めて祭りに連れ出した日に知った『楽しい』なんて感情はすっかり忘れたみたいに、苦しそうな横顔をしていた)
今ならば、あの頃の彼の苦悩も推察できる。聖人だと言い出さねばと思いながら、決して軽くはないその重責に、今にも押しつぶされそうだったのだろう。
だが、その重荷を一緒に背負ってほしいと頼ってもらえなかったことが、悔しくて、不甲斐なくて、堪らない。
その結果、歴史上類を見ないあんな悲惨な最期に、たった独りで立ち向かわせてしまったのだとしたら、なおのこと。
「あんなに傍にいたのにな……」
ぽつり、と呟く声は、夕暮れが近づく部屋に空虚に響く。
そっと瞳を閉じれば、十五年前、彼が確かにこの部屋で息づいていた気配を思い出すことが出来る。
(大丈夫。……まだ、忘れていない。アイツのことを、何もかも……絶対に、俺は、忘れたりしない)
ぐっと瞳を閉じて弱い心を振り払ってから体を起こし、今は亡き親友が残していった愛剣を取り出し、無言で手入れを始めた。
リツィードがこの世を去ってから、彼の生前をなぞるようにして行うようになった、習慣。
もうこの世界の誰も覚えていないかもしれない剣士としてのリツィードを――”人間”だったリツィード・ガエルを、忘れないで居続けるための”儀式”にも似ていた。
『ふ……ははっ……そっか。うん。これが、『楽しい』って感覚なんだな』
不意に、生まれて初めて参加したという納涼祭で、零れるような笑顔を見せたリツィードを思い出す。
あのとき、世界は確かに色付いて、鮮やかで、美しかった。
彼と出会う前の、真っ黒に塗りつぶされた世界が嘘のように、キラキラと眩しく輝いていた。
リツィードと過ごした十年は、カルヴァンにとっても『楽しい』毎日だった。
生きることにすら執着の出来ない自分が、唯一無二の親友の孤独を癒すためならいつまでも生きていたいと思えた毎日。
『ヴィー』
友人なら呼ばせてやる、と言って許した愛称を、くすぐったそうに、嬉しそうに呼ぶ声は、今も耳の奥にこびりついて離れない。
ふと窓の外を見ると、茜色の空が紫色に染まりつつあった。
まるで繊細な水彩画のような色使いの美しい景色に、カルヴァンは虚ろな瞳を向けて苦々しく頬を歪める。
あぁ――親友がいなくなったこの世界は、いつまでも、どこまでも、変わらず真っ暗だ。
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