第2話 別れの年

 窓から夏の日差しが差し込む部屋で、リツィードは珍しく机に向かっていた。

 『奇跡の部屋』などとふざけた呼称で呼ばれるこの部屋は、同居人がいつも甲斐甲斐しく掃除をしてくれるために、同僚たちの部屋とは見違えるほどに整理整頓されている。


「これでよし」


 口の中で小さくつぶやいて、手にしたペンを筆立てに戻してから、したためた書物――親友に宛てた手紙を折りたたむ。

 白い封筒の中に入れ、しっかりと封をしてから、はっきりと誰に宛てたものかわかるように、表に宛名を記載した。


 聖人たるもの、個人の感情を全て殺すべし――そう教わって、生きてきた。

 民を分け隔てなく救うために、積極的に思い悩む信徒に手を伸ばし――彼らを救えば、その手を離して、また次の信徒へ。

 あくまで、聖人に許されるのは、手を差し伸べることだけ。信徒が縋れる先を提供するだけ。

 握られた手を握り返すことなど、もっての外――『特別』は、誰一人造ってはいけない。


「そう、教わってたのに、な……」


 ほんの少しだけ痛ましげに眉を顰めた後、眩しい光が降り注ぐ窓の外へと眼をやる。

 今日は朝から、賑やかな祭囃子が街に響いている。


「納涼祭――懐かしいな。最後に行ったの、何年前だっけ……」


 目を細めて、遠い記憶へと思いを馳せる。

 人生で初めて祭りに行った日は、今でも昨日のことのように思い出せる。

 生まれて初めて出来た”友人”に手を引かれて、見たこともない物を見て、食べたことがない物を食べて、ずっと心が浮ついていた。

 

 『楽しい』という感覚を、初めて知った日だった。


「今日は、納涼祭で、久しぶりに皆浮かれる日だから……流石に、言い出すのはやめておいた方がいいかな」


 誰にともなく言い訳がましく呟いて、そっと机の引き出しを開け、二重底へと友への手紙を仕舞い込む。

 これで、自分の思惑とは異なるタイミングで手紙が露見することはないだろう。

 聖女と英雄の息子がいるこの『奇跡の部屋』に無神経に踏み込む愚かな同僚などいないし、同室の友人は、勝手に私物を漁るようなマナー違反はしないことはわかっている。引き出しの二重底も、かなりわかりにくく創ったから、一見しただけでは見破ることは出来ないだろう。


「カルヴァンは……まぁ、今日も朝まで帰って来ないだろうな」

 

 女遊びを覚えた親友は、休みの日には大抵女を引っ掻けに出かけていく。

 納涼祭の日は、兵士の仕事も休みになるせいで、毎年カルヴァンは好き勝手に遊び歩いて、明け方近くになるまで帰ってこない。


 カルヴァンが連れ出さない限り、聖女の息子でどこか人間味を感じさせないリツィードを、宗教色の全くない祭りへ連れ出すような奇特な人間はいない。特に、アルク平原の戦いを終えた後は、以前よりも遠巻きにされることが多くなった気がする。

 故にこの数年は、納涼祭の日は毎年、賑やかな祭囃子を遠くに聞きながら、いつもの休日のルーティンをこなすだけだった。


 だから、初めてだ。――こうして、ルーティンに無い行動をしたのは。


「今日は、仕方ない。仕方、ない。納涼祭、だし……でも祭りが終わったら……ちゃんと、言い出さないと……」


 ぶつぶつと口の中で繰り返しながら、自分に言い聞かせる。我知らず、胸元に下げた聖印に手が伸びていた。


 母・フィリアが死んで、国全体が惑っている。各地で魔物の出現情報が出ては、兵団にまで支援要請が来る始末だ。

 国民は皆暗い顔をして、毎日恐怖と絶望に支配されながら生きている。

 早く、聖人として名乗り出て、彼らの精神的な支えとなりながら、結界を張ってこの国を守らねば――

 いつもそう思っているのに、毎日、同室の友人の顔を見て、声を聴くたび、その決心が鈍る。

 

(どうしても、カルヴァンに直接伝えられないなら……その時は、この手紙と、書置きを残して行けば……)


 どうせカルヴァンが帰ってくるまで、十分に時間がある。その間に、覚悟を決めればいい。

 明日は仕事だ。少し早く切り上げて先に帰ってくるなり、カルヴァンが食事なり風呂なりで別行動をしているときなり、時間を見つけてこの手紙を目に付くところに置いて、教会へ赴いて名乗り出ればいい。

 

 何度も聖印の固く冷たい手触りを確かめながら、震える吐息で深呼吸をし、覚悟を決めようとしていた時だった。


 バタンッ


「まさかとは思ったが、お前、こんな日に本当に引きこもってるのか」

「!?」


 ノックもなしにいきなり背後で扉が開いて、心臓が止まるかと思うほど驚いて立ち上がる。

 見れば、同居人が呆れた顔で入り口からこちらを見ていた。


「ヴィー!?」

「ぁん?なんだ、慌てて。……ははぁん。お前もついに――」

「はぁ!!?お前と一緒にすんな!!!」


 ニヤニヤと悪童さながらの悪趣味な笑みを浮かべて、右手で卑猥なジェスチャーをした友人に唾を飛ばす。

 聖女の息子を何だと思っているのか。光魔法が使えないという設定になってはいるものの、そこらの聖職者の数百倍も聖職者らしい規律ある生活を営んでいると言うのに。


「ってか、こんな早い時間になんだよ。忘れ物か何かか?女引っ掛けに行くだけだろ?」


 手紙を書き終えて隠した後で良かった、と心から安堵しながら、自然に話題を切り替える。

 少し面白くなさそうな顔をした後、カルヴァンは左手で耳を掻いた。


「今日は『納涼祭』だぞ」

「は?……知ってる。エルム様に関係ない祭りだから、女も開放的になる分引っ掛けやすいって、お前が言ってたんだろ。女の敵」


 ジト目で言い返すと、呆れたような嘆息が返ってきた。


「そうだ。今日はお前の大好きなエルム様の目が届かない祭りだ」

「ぅん?」

「だから、いいだろ。――今日くらい、多少羽目を外しても」

「ぇ――」


 友が大股で近づいてきた――と思ったときには、腕を取られていた。

 ぱちぱち、と思わず目を瞬いて掴まれた腕を見る。


「行くぞ」

「へ……わっ?」


 そのまま、ぐいっと半ば強引に腕を引っ張られ、部屋の外へと連れ出される。


「ちょ――カルヴァン!?」

「忘れたのか。……今日は、『楽しい』日だ」

「!」


 ドキッ……と心臓が一つ、音を立てる。

 

「街へ出て見ろ。お前が大好きな信徒も、今日くらいは笑顔で過ごしてる」

「ぁ……」

「それなのに、お前が死にそうな顔してる理由なんて、どこにもない。ちゃんとその目で見て、お前も『楽しい』を思い出せ」

「…………」

「もうすぐ、風魔法のイベントだ。それが終わったら、夜には火のアートと、水の舞。――いくらなんでも、覚えてるだろ。何回も、一緒に見た」

「……うん」


 ずんずんと腕を引っぱるばかりで、決して一度も振り返らない背中に、静かに頷く。

 何故だろう。……ぎゅっと胸の弱いところを爪を立てて強く掴まれたように、切ない痛みが走る。


 親友の優しさに、胸が締め付けられるようだった。

 

 女を引っ掛けるのに最適だと言っていた一年に一度のこの日を、リツィードのために使おうとしてくれている。

 フィリアが死んでから、リツィードの様子が違うことには気づいているのだろう。いつも、何度も、もの言いたげな顔で少年を見ていた。直接水を向けられることだって何度もあった。

 それでも、胸の内を素直に打ち明けられないリツィードに、苛つくでもなく、ただじっと待つ姿勢を見せてくれるカルヴァンには、感謝しかない。


 今日もきっと、いつも浮かない顔で何か深刻な悩みを抱えていると思しき親友を、幼い日に『楽しい』と思えた祭りに連れ出そうとしてくれているのだ。


(……この、手を……握り返しちゃ、いけない……)


 無造作に腕を掴んで引っ張る手は、いつも、リツィードの弱い心を暴き出す。

 どんなに独りになろうと拒んでも、諦めずに何度も、何度も、そっと寄り添うように差し出されて繋がれる手。

 出逢ってからもう十年――ずっと、ずっと、変わらず一番傍にいてくれた。

 自由を愛す彼にとっては煩わしさしかなかっただろうに、決して独りにはしないと約束して、幼い日の言葉通り、”友人”になってくれた。


(ごめん……ごめん、ヴィー……俺、ホントは、お前が大嫌いな、聖人で……十年、ずっと、お前を騙して生きて来たんだ……)


 フィリアが死んだ日から、何度も口に出そうと思っては喉につっかえて音にならないその言葉は、今日もまた、震える吐息に紛れて消えた。

 これを音にして紡いだら――十年の月日が、全て崩れ落ちてなくなってしまう気がして。

 大好きでたまらないこの声に『大嫌い』だと告げられ、十年何があってもずっとこの身を掴んでくれていた手すら、あっさりと離されてしまいそうで――


「ほら、行くぞ。……もう、『楽しい』はわかるだろ」

「うん。……うん。わかる。ヴィーが、教えてくれたから……ちゃんと……わかる、よ……」


 わからなかった感情は全部、”友人”になったカルヴァンが、教えてくれた。


 きっと、やがて訪れるだろう避けられぬ未来を恐れて震える今の感情こそが、『哀しい』なのだろう――

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