病院地下での安楽死

 人は皆、誰しもが苦しみながら生きている。そして、その苦しみの大半は、大抵の人間が経験しているため、多くの人々からの共感を得やすい。だからこそ、人は苦しみから解放されようと頑張れる。諦めずに、最後まで行動を続けられる。そうしてまた、生きる活力を心の奥底から生み出して、人生を楽しめる。


 しかし世の中、そういう人ばかりじゃない。難病で身体を蝕まれ、ひどい痛みに耐え続けている人も、身体の自由を失って、寝たきり状態の人もいる。それなのに、この社会はどうだろうか。死ぬ権利を否定し、苦痛から逃れる自己決定権を人々から奪っている。それは、どうなろうと苦しみ続けろと言っているのと同義だ。そんな理不尽、あって良いはずが無い。


 安らかなる死。その手段とも言える安楽死を、明るい未来を描きようがない全ての人々に、選択肢として提供されて然るべき。その思いは腐ることなく、心の内で成長を続けている。消えない、強くなる感情に僕自身、どう向き合えば良いのか。


 分からない。だけれども、それを口にすれば罪になる。


「本当に、大丈夫なんでしょうか?」

「はい。間違いなく、この方は助かります」

「良かった……。それじゃ全部、お願いしちゃいますね」

「もちろん、任せてください」


 そのため、このように会話のやり取りまで工夫しなければならない。僕は、安楽死をさせてあげたいというコワム一家の頼みで、マド・コワムという名前の高齢女性を、別の名目で少し前から入院させていた。


 もちろんそれは、僕と2人の看護師しか知らない。極秘事項だ。それゆえに、安楽死を実行するとなった際は、慎重に行動する必要がある。僕は、マド・コワムの基本情報を参照し、電子カルテに、身体検査の結果や、処方薬の内容などを、ひとつひとつ確認するように、慎重に慎重に書き加えていった。


 あとは……。あとは、この病院の地下で、安楽死を行えば。それで、僕の人生をかけたこの計画は無事に終了する。それでも。僕には気がかりなことがあった。この病院で働く誰が、『監視人』なのかまるで見当が付かない。もし、その『監視人』に、マド・コワムを地下に運ぶ瞬間を見られたら?安楽死の瞬間、『監視人』が僕を見張っていたら?考えたくはないが、2人の看護師の片方、あるいは両方が『監視人』という可能性だってあり得る。


 大丈夫。彼女らには、マド・コワムが、表向きのものとは違う目的で入院しているとしか伝えていない。だから安楽死とは言わず、医療ミスに見せかければ、自殺連想言動罪に反したという理由で『監視人』に捕まることはないに等しい。


(さて、マド・コワムを運び出す予定時刻は……)


 あった。今日の昼過ぎ。もっと正確に言うなら、今から1時間経った時刻。悠長にのんびり構えている余裕はない。


 僕はいつも通りを装って、極秘事項を知っている2人の看護師に近づいた。


「どうしたんですか?」

「何か予定でもあるんでしょうか、ドクター?」


 こちらの反応を窺う2人の看護師に、これからの予定を告げる。


「1時間後に、マド・コワムを担架で運びたいんだ。君たち、手伝える?」

「他のドクターの治療を手伝うので、私は無理です。すみません」

「私の方は大丈夫です。特に緊急の用事は入ってないので」

「分かった。じゃあ、ポロマーラさんには」


 僕はそこで一瞬だけ間を置いた。必要なのは、少しの時間と深呼吸。


「代わりの人を手配するように、お願い出来る?」

「もちろんです、ドクター」

「じゃ、またあとで会うことにしましょう」


 僕はそう告げて、その場を離れ、自らの持ち場に戻った。白く塗装され、こじんまりとした診療室。ここには、鼻につくほどの強いアルコール臭が、壁や天井に染み込んでいる。しかしそれも慣れてしまえば、懐かしい感覚に変わる。ある種の思い出に浸ったような気分になれるのだ。でも僕には、やるべき仕事が診療室の中に、たくさん残っていた。


 仕事が遅いからじゃない。どんなに仕事を進めても、それと同じくらいの仕事量が、また新たに発生してしまう。だからこそ、心休まる時間を勤務中に確保するのは、とても難しいと言っても嘘にはならない。


 それゆえに、食事の時間は貴重だし、病院仲間との情報交換も出来る。とは言っても、いつも一緒に居るわけではないので、食事の時間は当然、日により、人によりバラバラになってしまう。それは病院の都合上、仕方ないことで、全員が一斉に休んで、何か起こったら誰も対応できないし、命に関わることもある。


「ドクター、お昼はもう食べましたか?」


 聞き慣れた声の主を探し、僕は後ろを振り返った。ドクターのホゴノト。僕とは違う専門医なのに、もう2年の付き合いで、気心の知れた仲だ。


「実はまだなので、良ければ一緒にどうです?」

「良いですね。それとついでに、意見共有も出来たら、尚のこと嬉しいです」

「何か、新しい情報でもあるの?」

「難航している患者の治療計画におきまして、少し助言がしたくて」

「それはありがたいね。さ、今日は何にしようか?」

「まずは、メニューを見なければ何とも……」


 病院内の食堂に着き、入り口前のメニュー表をざっと見る。


「ああ、今日は日替わりがおいしそうだ」

「奇遇ですね。私も同じことを考えていました」

「では先に……」


 僕はそうして先に会計を済ませ、トレーの上に乗せられた日替わりランチを、陽の差し込む窓際の席まで持っていく。するとすぐさま、ホゴノトが、満面の笑みを浮かべながらトレーを運んで、僕の隣に座った。食事前の習慣で、お手拭きを手や指に絡ませつつ、ホゴノトが外を眩しそうな目つきで観察してから話し出す。


「ラヴォクさんって、いつも窓際の座席を選んで食べますよね。ずっと気になってはいましたが、何か特別な理由でもあるんですか?」

「外を歩く人は、元気じゃないですか。だから、ウチの患者さんたちには、元気を取り戻して、いつか再び、自分の力で歩けるようになって欲しい。その願いを忘れないために、僕は窓際の席で常に、食事を済ませているんです」

「素敵すぎる。ホント、聞いてよかった」


 少し感動した声色になったホゴノトが、日替わりランチを食べ始めたのを見計らい、僕も同じように、目の前の料理に手を付けた。


「そうそう、言い忘れるところでしたが、トナイナートさんは現在、9種類もの薬を服用しています。本人の免疫力がとても弱いとはいえ、いま一度、処方する薬の内容を見直した方が良いのでは?」

「僕もそれについては頭を悩ませてる。副作用のない薬で代用すれば、多少は減らせるけど、効力は弱いから、症状がかえって悪化するかもしれない」


 僕の言葉に、ホゴノトが難しい顔を浮かべた。僕たち医師は、正解の分からないジレンマに直面した時、こういう表情になる。誰も、確かな答えは持っていない。それでも選択を迫られた際は、これまでの経験と、直感を信じて、自分の責任の下、より適切だと思う判断を下すしかない。


「最終的な判断は、ラヴォクさんにお任せしますよ」

「まとまった時間がある時に、トナイナートさんとも話し合ってみます」

「それが良いと私は思います。何はともあれ」


 先に食事を終えたらしいホゴノトが、トレーを持って椅子から立ち上がる。


「患者の心身に寄り添うこと。そのために医師が居るのですから」


 そう言い残し、ホゴノトが食堂から去っていった。患者の心身に寄り添う。確かにそれは、医師のあるべき理想の姿だ。しかし全ての場合において、患者が生きる道を望んでいるわけじゃない。それなのに、病院を始めとした社会全体が、人々に対して、生きる義務を強制的に背負わせてはないだろうか。


 僕はトレーを返却口に置き、ポロマーラとの待ち合わせ場所に向かった。彼女との手筈では、偶然、同じ所に居合わせた風に装うことになっている。


「お、ポロマーラさん。こんなところで何を」

「近く行う定期検診について、ちょうど話をしていました。知ってるとは思いますが、一応紹介しますね。彼女、ホランさんっ言うんです」

「今回は、よろしくお願いします」

「こちらこそよろしく」


 僕は軽く会釈して、ホランとの挨拶を済ませた。彼女を見るのも、彼女と話すのも今回が初めてという訳ではない。そのため、彼女との会話は、知らない人同士の交流というより、顔見知り同士の社交辞令に近かった。


「そろそろ時間だし、マド・コワムを担架で一緒に運ぼうか」

「どこの手術室まで引っ張るんですか?」


 僕はホランの疑問に、意を決する覚悟で答えた。


「いいや、地下に運ぶ」


 その言葉に、ポロマーラとホランは唖然とした表情を浮かべた。無理もない。この病院の地下は事実上、物置と化している。


「ドクター、何を馬鹿なこと言っているんですか?地下には医療設備どころか、医療器具も全く無いんですよ……?」

「ポロマーラさん、僕は本気で言っているんだ」

「それなら私、降ります」

「私も辞退します」


 ポロマーラに続き、ホランまでも、マド・コワムの運搬を拒否している。残念で仕方ないが、彼女たちの意思を尊重しよう。


「悪かった。僕1人でも地下には運べるから、心配は要らないよ。どこか忙しそうな場所があったら、率先して手伝ってあげてください」

「そうさせて頂きます、ドクター」


 すっかり冷たい態度となったポロマーラ。それに乗じるように、ホランもまた、僕に対し、温かみの無い言葉を発する。


「これからは私の手が空いてたとしても、断り続けますからね」


 ホランのはっきりとした拒否反応に、少なからず心が傷つきながらも僕は、2人の看護師の前から消え、マド・コワムが横になっている病室に向かった。


「マド・コワムさん、こんにちは。調子はどうですか?」

「とて……も……、わ……る……い……」

「とても悪いんですね。これから手術ですが、心の準備はよろしいですか?」

「いい……」


 僕は手術という嘘に、心が痛んだが、それを顔には出さなかった。車輪が付いた担架の上にマド・コワムを寝かせ、エレベーターに乗り込む。あとは地下で、誰にも見つかることなく、マド・コワムの安楽死を医療ミスの名目で、実行できれば。


「ちょっと待ってくださいね」

「ああ……。あ……」


 僕は、地下にはない医療器具を持ってくるため、エレベーターを呼ぼうとした。だがエレベーターは、僕がボタンを押す直前、その扉を開けた。


「ここに居たんですね、ラヴォクさん」


 エレベーターから姿を現したホゴノトが、残念そうに口を開いた。その右隣には、マド・コワムの極秘事項を知る、もう1人の看護師アスラが立っている。彼らの後ろにも他に、数人ほどの人がエレベーターの中から、僕と、マド・コワムの様子を窺っていた。


「人を生かすための手術なら、こんなとこに患者を運びませんよね」

「もちろんそうだ。だって彼は、マド・コワムを安楽死させるつもりだったから」


 僕はその事実を認めて捕まった。手術中、不自然の無い様に、医療ミスを起こして人を殺める。それが不可能に近いことだと、理解していたからだった。

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