第48話 旅行一日目が終わって

「あ~」


 おっさんみたいな声が浴室にこだまする。俺の声である。

 ちゃぷちゃぷとお湯が揺れる音がする。俺の動きによるものである。

 体を投げ出し、完全なリラックスモードでお湯に浸かり、窓からの景色を楽しんでいた。


「夜景が綺麗だ」


 国道は明るく、遠くまで続く建物の灯りが色とりどりで綺麗な夜景だと思う。

 さっきの散策で見たいろんな場所も、こうして高いところから見るとまた違った印象を受ける。絶景かな絶景かな。

 お湯も心地よく、歩き回って疲れた体の芯まで温めて癒やしてくれる。


「あ~」


 また、だらしない声が漏れた。

 力が抜けてお湯に溶け出していく。体が液体になってお湯と一体化していくような感覚に見舞われる。

 顎までお湯に沈み、しばらくこの状態を維持。

 それから体を起こし、誰もいないからとつい嬉しくなって犬かきで泳ぐような素振りをしてしまった。

 二周くらい周回して再び元の位置に戻り、出っ張りに腰掛けてまた顎まで体を沈める。

 何なら永遠にここで時間を潰せそうな気がする。ここで寝るのもまた一興かとも思う。間違いなく溺れるだろうけども。

 どのくらいこうして浸かっていたのかは分からない。

 いつまでもいられると思ったけど、やっぱり限界は来るもので体が少しずつのぼせてきた気がする。

 もういいかな、とお湯から上がった。

 最後にちょっとぬくい感じのシャワーで全身を整え、それからようやく浴室から出る。

 体を拭き、服を着て頭をドライヤーで乾かしながら鏡の前で自分の顔を確認する。

 ちょっとだけ口周りの髭が気になったから、備え付けのひげ剃りで気にならない程度に削ぎ落とす。

 髪が乾くと次に歯ブラシを手にして歯磨きをすることにした。お風呂上がりにプリンを食べようかと思ったけど、もう入りそうにない。

 内側も外側もさっぱり綺麗に洗い、口をゆすいで持ち込んだものをまとめて脱衣所から出て行く。

 玲奈はまだか、それとも先に部屋に戻ったのかは分からないけど、リラックスルームに姿が見えなかったから少しだけここで休んでいこうと思う。

 マッサージチェアに座り、もみほぐしモードを選択して夜景を見ながら体を揉んでもらう。


「あ゙あ゙あ゙あ゙」


 まさに極楽。気分がすこぶるいい。

 夜の贅沢な時間を心から楽しむ。

 冬華さんが引っ越してきてからは平和だったけど、それ以前の傷はやっぱり心のどこかに残っていた。

 それもこの初日だけでだいぶ薄れ、ついでに言うとテストで蓄積された疲労感も今じゃさっぱり感じられない。


「冬華さんには本当に感謝だな」

「そりゃどうも~」


 思ったよりも大きな声が出ていたらしく、ちょうど脱衣所から出てきた冬華さんに聞こえていた。

 後ろから玲奈もスッキリした顔で出てくる。


「いいねマッサージチェア。私も座ろ~っと」

「もう一つあるし、玲奈もどうだ」

「じゃあ遠慮なく」


 三人揃ってマッサージチェアに全身を揉みほぐしてもらう。

 力のないだらしない声が三人分、リラックスルームに響き渡った。


「ダメだもう部屋に戻る」

「お姉ちゃん?」

「どうしたんですか?」

「気持ちよすぎてやばい。寝そうだから部屋でゆっくり寝るよ」


 先に冬華さんがマッサージチェアから立ちあがったから、どうせならと俺たちも切り上げることにする。

 三人でエレベーターを待ち、それぞれの部屋がある階へ降りていく。

 当然だけど先に着くのは俺と玲奈の八階だ。

 扉が開き、俺たちは降りる。


「じゃあ二人とも、明日はとりあえず七時半に一階の朝食会場で待ってるね」

「分かりました」

「うん。お姉ちゃんもおやすみ」

「おやすみ~」


 扉が閉まり、冬華さんが降りていった。

 俺と玲奈は自分の部屋へと戻る。

 キャリーバッグを動かし、作った端のスペースに脱いだ服を入れた袋を置いた。これで邪魔にはならない。

 玲奈は冷蔵庫を開けてプリンの温度を確認していた。


「いい感じに冷えてる。隼人も食べない?」

「ごめん、今日はパス。お腹いっぱいだし歯磨きしちゃった」

「そっか。じゃあまた明日だ」

「そうしよう。あと悪い。トイレ借りるな」


 一応、中にある歯ブラシを先に出して玲奈に渡してやる。プリンを食べようとしていたから、まだ歯は磨いてないだろう。

 少し長めの時間トイレスペースを借りて、終わりに芳香剤で臭いを消してからトイレを出る。

 玲奈はテレビを見ていたけど、俺の姿を確認してそれもすぐに消していた。


「十一時か。寝るか」


 明日も早い。早く寝て楽しむエネルギーを蓄積しておきたい。

 玲奈はまだ起きているかもしれないし、電気はそのままにして布団を被ろうと――、


「ねぇ隼人。寝る前にデザートはどう?」

「プリン? ……食べたいなら付き合うよ」

「そうじゃないって」


 体を起こすと、すぐそこに玲奈の顔があった。

 驚くよりも先に唇で口が塞がれる。

 玲奈の顔が離れ、俺たちの口を透明な糸が結んだ。


「ちょっとだけ付き合って?」

「明日早いんだから、本当にちょっとだけな」


 抱きついてくる玲奈を受け入れ、二人でベッドに深く倒れ込む。

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