第34話 事件の後に

 ナイフの刃は財布を刺しただけで貫通することはなかったから、肉体へのダメージは一切ない。

 むしろ琢己に殴られた玲奈の口の中の切り傷と、俺の鼻の方が結構な惨事になっていたようで、病院で処置してくれたお医者さんは目を丸くしていた。

 医者人生十九年の中で、ナイフで刺されて搬送されてきたのに殴られた怪我の方が大きい人は初めて見たらしい。俺も初めてだ。

 というか、刺されるなんて体験は二度とごめんだけどね。高校時代に杏奈がカッターの刃一枚分腕に刺したことはあったけど、どうして人生で二度も刺されなくてはならないのか。

 あの時は杏奈のことを可愛いと思っていた時期だったから大事にしなかったけど、今になって思うと浮気してくれて揉めることなく別れることができたから良かったように思う。いや、これは揉めた末の事件扱いになるのか。じゃあ揉めたけど大した騒ぎにならずに……。

 いやいやナイフ出された時点で平穏とは言いにくくて……とにかくスパッと別れられて良かったと思う。

 玲奈はお姉さんに電話をかけていて、学校に置きっぱなしの車を家まで運ぶようにお願いしているようだった。

 そのやりとりをなんとなく聞いていると、看護師さんが警察官二人を連れて診察室に入ってくる。

 そうだった。琢己のあれもそうだけど杏奈のは完全に事件だから事情聴取があるんだった。


「いきなりで申し訳ない。いろいろと話を聞かせてくれるかな」

「あぁそりゃもちろんです」

「……刺された割にずいぶんと元気なんだね。ごめん、こういう事件の聴取ってもっとこう、あれだから……」


 警察官もビックリしてるよ。俺も驚いてるけど。

 先輩らしき警察官が咳払いし、遅れて女性警察官二人が部屋に入ってきて、玲奈を別室に連れて行ったところで聴取が始まる。


「えと……時系列に沿っていこうか。あの男性とはどういう関係なのかな?」

「あいつは弟ですね。法律とか授業で囓っただけなんであまり詳しいこと分からないんですけど、こういう場合って逮捕とか難しいんでしたっけ」

「普通は難しいけど、彼は公務執行妨害やってる上に君と一緒にいた女の子も殴っちゃってるからなぁ。そっちで立件されるだろうし、大抵は出されないけど君も被害届を出せば立件されるよ」

「あ、じゃあ被害届出します。どうすればいいですか?」


 そんなのノータイムで出すに決まってるだろ。俺はともかく玲奈を傷つけたことは絶対に許さない。

 玲奈の一件で傷害が成立しても腹の虫が収まらないから、俺の分も含めて罰を受けるがいい。そうしたらついでに親にも飛び火するだろうし。

 事情をなんとなく察してくれたのか、すぐに後輩らしき警察官が聴取で被害届を作成してくれた。

 琢己の件についてはいくつか追加で聞かれて、そして本命らしき杏奈の事件について聴取が始まる。


「さて。で、ナイフで襲ってきた子は知り合いかな? 現場の警察官の話では口論があったみたいだけど」

「元カノです。痴話喧嘩になると思ってたんですけど、まさか刃物を持っているなんて思わなくて」

「普通は思わないよね。まぁ……災難だったね」


 同情的な声音だ。

 これは被害届云々関係なく殺人未遂ということで捜査が行われるらしい。幸いにも俺も玲奈も無傷だったから、刑は軽くなるかもしれないけど。

 ただ願うのは、もうこれっきりで接触してこないでほしいということだ。真剣に接近禁止令を求めて裁判しようかな。


「しかし財布が守ってくれるなんてね。漫画じゃないんだから……ふふっ」

「おい失礼だぞ」

「そうでした申し訳ありません」

「いやいや! 笑ってくれた方が気が楽になりますし」


 怪我がなければ笑い話にした方が余計な気苦労がなくていい。刑罰は別にしてあまり周りから心配されるのもそれはそれで居心地が悪いんだから。

 隣室から女性警察官の慌てたような声が聞こえてくる。


「向こう、荒れてますね」

「玲奈がきっとめっちゃ怒ってるんでしょうね」

「あー……察し。君は彼女を怒らせないようにね。ないと思うけどまた調書を取らなくちゃいけない事態になるのはこっちも困るし悲しいから」


 おっとそれは警察流のブラックジョークだろうか。

 俺だって今後は落とし物と迷子以外で警察のお世話になんてなりたくないし、玲奈と喧嘩することはあっても別れるなんて絶対にあり得ないはずだから事件になるようなことはないはず。

 その後、いくつか確認と質問があって、それらをまとめて警察官二人は帰っていった。

 少し遅れて女性警察官二人も帰っていき、玲奈がこっちの部屋に戻ってくる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る