第33話 狂気的な元カノ
人をかき分けて杏奈が姿を見せた。
どうにも様子がおかしい。まるで、高校時代に事件を起こしかけたあの時と同じような状態の目を見て、本能的に危険を悟る。
「琢己君は捕まったし、もう私には先輩しかいないんです。ねぇ先輩……私ともう一度お付き合いしてください……」
杏奈の瞳に底知れぬ闇のようなものを感じ取った。
様子がおかしいことにいち早く気づいたのは雨宮だった。
離れた場所からではあるけど、視線を鋭くして杏奈に話しかける。
「もういい加減に諦めなよ。杏奈ちゃんから裏切っておいてそれは筋が通らないでしょ」
「関係ない人は黙っててッ! 私は先輩と話をしているんです!」
雨宮が言葉に詰まるほどの声だった。
周囲も何事かとざわめきはじめ、警察の人も目を細めて俺たちの動きを見ている。
口元の血を拭い、玲奈が俺の前に立った。
「いい加減にして。隼人は迷惑してる。これ以上隼人に近付くな!」
「……そう、ですか。先輩が私の元に戻ってきてくれないのはお前がいるから……」
ゆらりと動く杏奈は、鞄の中に手を入れた。
猛烈に嫌な予感がして、すぐに玲奈を守ろうと庇うようにして抱きかかえる。
背中を向ける直前、杏奈が鞄を投げ捨てたのが見えた。右手に陽光を反射する細長いものが握られている。
銀光りするあれは……間違いなくナイフ!
高校時代に嫉妬でカッターを向けてきたことはあったから警戒していたけど、まさかナイフを持ち歩いているなんて思わなかった。
無線で話していた警察官がすぐに動くけど距離がある。刃物を前にしては篠原たちも動けない。
刃先は俺を、というより玲奈を狙っていたから、玲奈を抱きしめる力を強くして目を閉じる。
脇腹に衝撃を感じた。周囲からいくつもの悲鳴が重なって聞こえる。
「隼人っ!!」
泣きそうな玲奈の悲鳴が鼓膜を揺らした。
ナイフを抜いた杏奈が逆手に持ち替え、今度こそ玲奈を刺そうとしていたけどそこは警察官が飛び込んでタックルの勢いで防いでくれた。
ナイフは転がって用水路に落ち、杏奈の身柄も拘束される。
「離して! 先輩は騙されてるんです! あの女を私が殺さないと!」
「暴れるな! 大人しくしろ!」
遠くから応援のパトカーのサイレンと救急車のサイレンが聞こえてくる。
杏奈の手にも手錠がかけられ、救急車より先に到着したパトカーへと引っ張られていく。
俺は、さすがに脇腹が痛いなと思って近くの花壇脇に座り込む。
雨宮たちが心配して駆け寄ってくれるけど、玲奈の様子が特に酷かった。
顔を涙でぐちゃぐちゃに濡らして抱きつき、わんわんと泣いている。
「いや! しっかりしてよ隼人! 死なないで!」
俺のことをこんなに心配してくれているなんて。
玲奈の涙が無性に嬉しくて、でもそろそろ意識を保つのも限界で。
聞いたことがないような悲鳴で泣く玲奈の顔を瞼に焼き付けて、ゆっくりと視界が暗くなって――、
「……ん?」
暗くならないぞ。脇腹の痛みもなくなってきたんだけど。
一体どういうことかと刺された場所を見ると、ポケットから財布が飛びだしているのが見えた。
美咲さん、篠原と続くように段々と誰もが俺を守った英雄である財布の存在に気が付き始める。
「隼人それ……」
「マジかよ」
胸ポケットに入れていた携帯が銃弾を弾いて生き残る、というのは創作世界でよく聞く話だ。
でも、まさかポケットに入れていた財布がナイフの刃を肉に刺さる前で止めるなんて事が現実で起きるなど誰が想像しただろうか。奇跡を起こした張本人もビックリだよ。
玲奈も俺が無事な事に気づいたみたいで、一層大きな声で泣きながら飛びついて泣き叫ぶ。
「よかったっ! 本当によかったっ!!」
「ごめんな玲奈。心配かけちゃって」
「無事だったからいいの! 私こそごめんなさいっ! 私のせいで危険な目に遭わせちゃった!」
「いやこれは多分だけど俺が二割くらい悪い気が……」
言うまでもなく八割悪いのは杏奈な。
泣く玲奈の背中をさすって宥め、俺は震えながら財布の中身を確認する。隣で篠原も中身を覗き込んできた。
「英世さんが二人逝ってるじゃんか」
「クレジットカードも割れてるし。再発行の手続き面倒なんだぞ……」
貫かれた被害は無視できないものではあったけど、まぁ命が無事だったからよしとしようか。
琢己と杏奈はそれぞれパトカーで連れて行かれ、俺は駆けつけた救急車で念のためにと病院に運ばれることになった。
病院に向かう最中、玲奈からは何度もお礼を言われて、話を聞いた救急隊員のお兄さんからはすごく褒められたから、悪い気はしない、かな。
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