第7話 拭えない不安

 ご飯を食べ終え、皿洗いやら何やらを玲奈がしてくれている間に俺はシャワーでさっと体を洗う。

 そして、玲奈がお風呂に行っている間に歯磨きを終わらせて、ボーッとソファに座っていると段々と眠気を感じるようになってきた。

 環境が急に変わった事による影響だろうか。もうさっきからずっと欠伸が止まらない。

 玲奈は怒るかもしれないけど、悪いが先にここらで眠らせてもらうことにしようと思う。

 自分の部屋からブランケットを持ってきて、ソファの上で横になってそれを被る。


「お風呂上がったよー。……って、もしかして眠い?」

「あぁうん。ごめん先に寝るな」

「分かった。じゃあ、私も寝るからベッドに行こうか」

「そっか。おやすみー」

「隼人も来るの」


 ブランケットを奪い取られ、無理やり起こされて階段を登らされる。

 って、ちょい待ちちょい待ち。


「ベッドが届くの明日じゃなかったか?」

「うん。だから、今日は私のベッドで一緒に寝よう?」

「おっふ」


 俺は別にソファでもよかったんだけど。

 でも、眠くて頭がろくに回っていない状態だったから、深く考えることなく連れられるまま玲奈の部屋へと向かう。

 そして、そのままベッドの近くまで運ばれるとそこで糸が切れたように体が動かなくなって柔らかなお布団へと倒れ込んだ。


「お疲れ様。お休み隼人」


 額に湿った柔らかいものが優しく触れ、目の前が一気に真っ暗になっていった。


◆◆◆◆◆


 どこまでも続く黒い空。ドロドロとした星の光。

 この場にあるものすべてが人間の不快感を逆撫でするような嫌な光景。

 いつの間にか、そんな場所のど真ん中に立っていた。

 いったい何が起きたのかよく分からない。眠りに落ちる前までは玲奈の部屋にいたはずで――。

 そう、思っていたら聞きたくなかった声が鼓膜を震わせて顔をしかめる。


『悪いな兄ちゃん。この子も俺の方がよかったみたいで』


 背筋が凍り付いたかと思った。冷や汗か、脂汗かが顔を伝う。

 呼吸が速くなるのが自分でも分かる。

 見たくないものから目を背けようと、でも体は言うことを聞かずにゆっくりと後ろを振り返る。

 そこにいたのは、下着姿の杏奈と玲奈で、二人の胸を下着の中へ手を入れて揉みしだく意地汚い笑みを浮かべた琢己の――


◆◆◆◆◆


「――っ! ――人っ! 隼人っ!」


 体を揺さぶられたことで目が覚めた。

 全身が気持ち悪い。まだ五月の頭だというのにパジャマは汗で濡れて、シーツも湿っているように思う。

 吐き気もすごい。頭痛もすごい。呼吸が速くなっていて気持ちが悪い。

 汗を掻いているから暑いのかと思えば、体は震えていて自分の意思では止められそうになかった。


「大丈夫? うなされていたけど……」


 顔を上げると、上半身を起こした玲奈が不安そうに俺のことを見つめていた。

 ここでようやく、さっきまでのがタチの悪い悪夢だと理解する。

 でも、悪夢にしては現実味を感じさせる嫌な内容で、思わず玲奈に抱きついてしまった。


「隼人……?」

「玲奈は……離れていかないよな……」


 表層意識ではもう完全に吹っ切れたものだとばかり思っていた。

 でも、実際はそうじゃなかった。自分でも気づかないところで心はボロボロになっていて、不安と玲奈を完全に信じ切れていない疑心が入り混じっている。だからこそのあんな悪夢なんだと思った。

 玲奈と一緒にいてもいいのか。俺はずっと一人でいるべきなんじゃないのか。

 嫌な考えばかりが頭をぐるぐると巡って、もう頭も心もぐちゃぐちゃでおかしくなりそうだった。

 嫌なことを一つ考える度に、胃が締め付けられて吐きそうになって――、


「安心して」


 すっと体の奥底まで染みこむような心地よい声が耳の近くで囁かれる。


「私は絶対にどこにも行かないから。ずっと隼人と一緒にいるから。死ぬまで、ううん、死んでからも一緒のお墓で永遠に過ごすから」


 包み込むように優しく抱きしめられて、軽い手触りで頭が撫でられる。

 鼻頭にツンと痛むものが込み上げてきて、目頭が熱くなってくる。

 さすがに声を出すことはないけれど、今だけは胸を借りて涙を流すくらいは許してほしい。


「隼人が辛い思いをしたのはわかるよ。だから、これから私が絶対に隼人を幸せにしてあげる。だから今は辛いことを流して。今もこれからも私が慰めてあげるから」


 玲奈の優しい言葉を聞いたらもう我慢なんてできなくなる。

 強く力を入れすぎないようにと注意しながら、玲奈の腰に手を回して甘い香りがするパジャマに顔を押しつけるように咽び泣く。

 涙がこぼれ落ちる間、玲奈はずっと頭を撫でて背中をさすり続けてくれていた。

 さっきまでぐちゃぐちゃだった心に温かいものが満ちていくのを感じる。吐き気も頭痛も引いていく。

 そこから先のことはよく覚えていない。

 気が付けば、窓から眩い朝の光が差し込んできていて、目の前にはすやすやと気持ちよさそうに眠る玲奈の顔があった。

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