終章 野狂

野狂

 大勢の人々が行き交う朱雀大路で、その男は目立っていた。

 格好は庶民の着る黄衣こうえ直垂ひたたれ小袴こばかまという姿であるのだが、頭ひとつ飛び抜けて大きく、偉丈夫である。

 顔立ちは整っていた。肌は少々浅黒く焼けているが、眉目秀麗であり、どこか気品すらもあるように思えた。


「もし――」


 そう声をかけられた男が振り返ると、そこには立派な屋形を乗せた牛車ぎっしゃが停まっていた。

 声をかけてきたのは、その牛車に乗る人物であるようだ。

 牛車は檳榔毛びろうげのくるまと呼ばれる四位以上の公卿などが乗るものであったことから、男は頭を下げ、中を見ないようにしながら声を出した。


「なにか、御用でしょうか」

「そなたは、野狂殿ではないか」


 牛車の中にいた人物はそう言うと、前簾まえすだれを上げて、牛車からおりてくる。


「久しいの。元気であったか」


 その声を聞き、はっとした篁は顔をあげた。

 牛車から降りてきたのは、藤原ふじわらの常嗣つねつぐであった。

 常嗣は嬉しそうに笑みを浮かべながら、篁のことを見ている。


「これは、常嗣様。お久しゅうございます」

「そのような余所余所しい口調はよせ、野狂殿」

「しかし……」

「そなたは十分に罰を受けて戻ってきたのじゃ。昔のことは忘れよ、野狂殿」


 常嗣はそう言うと、持っていた扇子で口元を隠しながら笑った。

 唐の国より帰国した常嗣は、参議さんぎ左大弁さだいべん従三位じゅさんみとなっていた。

 それに対して、現在の篁は無位であり庶民である。

 常嗣は以前よりも痩せたようにみえた。遣唐使がそれだけ過酷だったのかもしれない。頬はこけ、肌もどこか乾いているように見え、一気に老け込んだようにみえる。


「隠岐の地は過酷であったようじゃな。また、そなたと共に歌でも詠める日が来ると良いな」


 そういうと常嗣は牛車に乗り込み、篁の前を去っていった。

 これが現世うつしよで常嗣の姿を見た最後だった。



 それから数カ月後。

 篁は、再び藤原常嗣と会うこととなる。

 しかし、そこは現世うつしよではなかった。

 冥府の赤門。そう呼ばれる巨大な門がある。その赤門の脇には牛の頭をした牛頭ごずと馬の頭をした馬頭めずと呼ばれる羅刹らせつが立っており、冥府へとやって来た亡者たちに厳しい視線を送っている。

 篁は冥府の王である閻魔大王の脇に座り、亡者たちの名前や罪状を書き留める司命しみょう司録しろくという書記官と共に亡者たちをひとり、ひとり、選別していた。


 そこに見覚えのある男がやって来た。

 藤原常嗣である。

 常嗣は篁と会った数カ月後に病死していた。


「これは、常嗣様。お久しゅうございます」


 閻魔大王の前に立った常嗣のことを見つけた篁は、常嗣に声をかけた。

 すると常嗣は驚いた顔を見せ、まるで池の鯉のように口をパクパクと動かした。


「大王様、この者は現世では遣唐使として何度もの失敗を経て、唐へとたどり着いた苦労人にございます。是非とも御慈悲を」


 篁がそう閻魔大王に告げると、閻魔大王はその大きな目をぎょろりと動かして、常嗣のことを見つめる。


「左様か。篁がそこまで言うのであれば、良いだろう」


 閻魔大王はそう言い、その隣に座る司録になにやら書かせた。

 司録は年老いた老人のような姿をしており、文字は何を書いているのかわからないようなくねくねと曲がったものだった。


「藤原常嗣。そなたは輪廻転生をし、再び人として生まれ変わることを許す」


 司録の書いた文字をその隣に座る司命が読み上げる。こちらの司命は男装をした女であった。

 司録と司命は閻魔大王の眷属である。司録の名は知らないが、司命の方はと呼ばれているということを篁は知っていた。

 司命の言葉に、藤原常嗣は頭を下げて礼を述べると、羅刹とともに輪廻転生を司る門へと向かっていった。



「のう、篁。このまま、お前はわしの副官にでもならぬか」


 閻魔大王が顎に生えたごわごわとした髭を撫でながら言う。

 その問いに篁は笑みを浮かべるだけで、なにも答えない。


「大王様、いけません。まだ篁様には現世でやることが残っているのですよ」


 司命はそう閻魔大王に告げる。


 そう、小野篁にはまだやることが残されていた。

 無位となった小野篁が、平安京みやこで再び輝く時がやってくる。

 その時を篁は、じっと待っているのだ。

 遠くない、その日を――――。



 YAKYO 野狂・小野篁伝 【完】

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