流人、篁(11)

 コツコツという木を削る音だけが鳴り響いていた。

 光山寺の堂に住み着いた男は、その日も赤子ほどの大きさの木をのみを使って削っていた。


 眉目びもく秀麗しゅうれい。かつて平安京みやこを騒がせた男の顔は、いまや見る影もない。

 肌は浅黒く焼け、無精ひげが顔を覆っている。

 流人るにん

 その男は、平安京みやこより、隠岐へと流されてきた罪人である。

 平安京みやこで何を仕出かしたかは、誰も知らない。ただ、男が人殺しや盗みなどの罪を償うために流されてきたというわけではないということだけはわかっていた。


「篁様。お客様がお見えです」


 堂の外から女の声がした。

 光山寺の住職の遠縁にあたる女であり、名を阿古那あこなといった。


「客?」


 その言葉を聞いて、篁は疑問を覚えた。

 流人として隠岐へ流された自分を訪ねてくる客などいるのだろうか、と。

 鑿を置き、立ち上がった篁は、手で払うようにして着物についた木くずを落とすと堂の扉へと向かった。


 光山寺の境内には、隠岐国司と数人の烏帽子姿の男たちがいた。

 篁は心配そうな顔をしている阿古那に頷いて見せると、男たちの方へと歩み寄っていった。


「小野篁にございます」


 篁は低頭して、自ら名乗った。


「篁殿、こちらは平安京みやこより参られた特使殿じゃ。お顔を上げなされ」


 国司の言葉に従い、篁は顔をあげる。

 するとその中の一人が、破顔はがんした表情で抱きついてきた。


「篁、元気であったか」


 男は力強く篁のことを抱きしめると、嬉しそうに言った。

 その男は、篁のよく知る男であった。

 藤原ふじわらのたいら。かつて平安京みやこで同僚であった男であり、そして友として酒を飲み交わす仲だった男である。


「久しいの、久しいの」


 平は涙ぐみながら言う。


「この通り、私は元気にしている。それよりも、平。こんな場所まで何用なにようで参ったのだ」

「何用で参っただと。この期に及んで、そのようなことを……」


 そこまで藤原平は言うと、急に表情を引き締めた。

 そして、懐から折られた紙を取り出すと、それを読み上げ始める。


「流人、小野篁。此度こたびの罪について、申し渡す。隠岐おき遠流えんるは、赦免しゃめんといたす。よって、平安京みやこへ帰京せよ」


 平はそう読み上げると、目から大粒の涙を流した。


 篁はゆるされたのである。

 隠岐に流されて一年と数か月。これほど短い期間で赦免されるというのは、異例のことであった。


「篁、帰ろう」


 平はそう言って、篁の手を取った。


 その様子を阿古那は、離れた場所から見ていた。

 篁が赦された。それは阿古那にとっても嬉しいことであった。

 しかし、それと同時に寂しさも込み上げてくる。

 篁が赦されたということは、隠岐から平安京みやこに帰ってしまうということでもあるのだ。

 阿古那は篁を愛していた。

 隠岐の守り神である須佐之男命の力を借りて、篁の中に住み着いていた悪鬼を払うことを手伝い、篁を元の人間に戻した。

 篁も阿古那のことを愛してくれていたはずだ。

 しかし、篁を引き留めることは出来なかった。

 そもそも、小野篁という貴人はこのような場所に居るべき人ではないのだ。

 国を動かせるほどの力のある、お方。それが小野篁なのである。

 もう、ここにはは、いない。

 いま目の前にいるのは、小野篁という名の貴人なのだ。

 阿古那は、そっと涙を流し、篁のことを遠くから見ていた。


 その日の晩、都万村つまむらの村人が光山寺に集まり、篁を送り出す宴が行われた。

 宴というのに、篁はあまりいい思い出が無かった。

 島前どうぜんを出る際に、ずっと従者を務めていてくれた源という男に殺されかけたのである。

 あの時は、篁の中に潜んでいた鍾鬼によって、源は片づけられた。

 そんな鍾鬼も、いまや篁の中には存在していない。

 鍾鬼は、払われたのだ。

 その後、鍾鬼がどうなったのかはわからない。

 おそらく、死んではいないだろう。

 もしかしたら、まだ何処かで誰かの中に入り込んで生き延びているかもしれない。

 鍾鬼は夢を喰らうバケモノである。ただ、その力は絶大であり、吉備真備を支配していたこともあったほどだ。

 まだ鍾鬼は、生きている。

 それが篁にはわかっていた。


 宴は大いに盛り上がり、篁もひさしぶりに酒を飲み、酔っぱらった。

 篁の隣では藤原平が酔いつぶれて眠ってしまっている。

 篁は平を起こさぬように、そっと立ち上がると光山寺の裏手にある滝の方へと歩きはじめた。


 ちょうど滝が見える辺りまでやってきたところで、先客がいることに気がついた。

 その先客が誰であるかは、後ろ姿ですぐにわかった。


「篁様……」


 阿古那である。

 篁は何も言わずに、そっと阿古那近づき、後ろから抱きしめた。


「寂しゅうございます」

「私もだ、阿古那」


 阿古那は篁の腕の中で振り返ると、そっと唇を篁の唇に重ねた。

 見事な蒼い月がふたりのことを照らしていた。その夜は満月であった。



 船が隠岐を出る。

 港は隠岐国司とその家臣、そして都万村の人々たちで埋め尽くされていた。

 誰もが篁との別れを惜しんでいた。


 そんな中に阿古那の姿は無かった。

 阿古那との別れは、昨晩のうちに済ませておいたのだ。


 篁は木彫りの地蔵を光山寺に残していた。

 その地蔵にどのような御利益があるかは誰も知らない。

 ただ、かつて流人だった男が残していったものとして光山寺に安置され続けることとなる。


 船が動き出し、港を離れた。

 もう、この景色を見ることは無いのだろう。

 篁は感傷に浸りながら、隠岐の島をじっと見つめていた。

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