常嗣と篁(17)

「どうなっておるのじゃっ!」


 藤原常嗣がものすごい剣幕で、小野篁の従者に詰め寄っていた。

 大宰府政庁には、遣唐大使である藤原常嗣により第三次遣唐使たちが集められており、出航の時期についての話し合いが行われる予定だった。

 しかし、そこには遣唐副使である小野篁の姿は無く、代わりに従者が篁のふみを持って現れたため、常嗣が詰め寄るという一幕となったのである。


「そうは申されましても、主人は病に臥せっておりまして」

「馬鹿を言うでない。もう出航せねば、唐の朝賀ちょうがには間に合わぬ」

「しかし……」

「もう良い。そなたでは話にならぬ。野狂殿が行かれぬというのであれば、別の人間を副使として唐へ向かうまでよ」

「しかし……」

「だまらっしゃいっ! わしは遣唐使のすべてを任されている大使であるぞ」


 怒りで顔を真っ赤にした常嗣が怒鳴りつけると、篁の従者は黙って下を向いた。


 篁はあの日以来、眠ったまま目を覚ましてはいなかった。

 唐人の客が来た日、篁は床に就くとそのまま目を覚まさなくなってしまったのである。

 呼吸はあった。大宰府が用意した医師の診察も受けたが、特にやまいがあるというわけでも無さそうだった。

 では、なぜ篁は目を覚まさないのか。

 このことを遣唐大使である藤原常嗣に相談したが、常嗣は「私は医師ではないから、わからぬ」と言うだけで、篁の見舞いに来ることもなかった。


 そうこうしている間に、勅符が朝廷より届いたのである。

 その勅符には、なぜ遣唐使船は大宰府から出航しないのだという叱責しっせきする内容と、勘発かんぱつ遣唐使けんとうし(遣唐使の出立事情について調査をする役)として、近衛このえの中将ちゅうじょう藤原ふじわらのたすくを派遣するという旨も書かれていた。

 その勅符を見た常嗣は慌てた。このままでは、自分の遣唐大使を解任される恐れがある。いや、それどころか朝廷への反逆すらも疑われかねない、と。


 常嗣は、遣唐副使である小野篁が病に臥せっているため出航が遅れているという理由と、このままでは埒が明かないので篁を置いて自分たちだけで出航するという旨を大宰府の飛駅で朝廷へと伝え、遣唐使船へと乗り込んだ。

 大宰府を出航する遣唐使船は全部で三隻であった。本来、常嗣が乗るはずだった第一船は、何度も大破していることから不吉だとして、常嗣はほとんど破損をしてこなかった篁が船長を務めていた第二船に乗り換え、その第二船を第一船として自ら指揮を執った。


 そして、三隻の遣唐使船は小野篁を大宰府に残して、唐へと向かったのであった。



 闇が広がっていた。

 ここには光というものはひとつも存在せず、ただ、ただ、闇が広がっている。

 その闇の中に、小野篁はいた。


「まだ諦めぬのか、篁よ」

「馬鹿なことを言うな」


 篁は闇の中で聞こえる声にこたえる。


「本当にしぶとい男よの」

「何とでも言うが良い。私は、お前などには屈したりはせぬ」


 真備の姿はどこにも見えないが、声だけは聞こえていた。


「お前に朗報じゃ。遣唐使船はお前を置いて、出航したぞ」

「そうか。それは残念だな」

「残念そうに聞こえぬぞ、篁。お前は最初から、唐へ行きたくは無かったのではないか」


 真備は笑ったような声でそう言うと、篁の右手をひねりつぶした。

 鋭い痛みが篁の身体を駆け抜ける。

 しかし、真備の姿は見えない。

 篁は、一方的にやられるだけである。


「いつまで、続くかのう、篁」

「いつまでも続けるが良い。私は、決して諦めたりはせぬゆえ」

「どこまでも強情な奴よのう」


 真備はそう言って篁の両耳を掴む。

 鋭い痛みと同時に、何かが引き裂かれるような音が聞こえた。

 千切れた。

 耳が引きちぎられたのだ。

 次は唇だった。

 そして、鼻。

 歯は一本ずつ引き抜かれ、指は一本ずつ順に潰されていった。

 もはや拷問である。

 篁の体は少しずつ、少しずつ、姿を見ることの出来ぬ真備によって壊されていく。


「さっさと、その身体を我によこせ、篁」

「断ると言っているだろう」

「どんなに抵抗しても無駄だということが、まだわからぬのか」

「無駄かどうかは、まだわかるまい」

「本当に強情で馬鹿な男よ」


 真備が笑った。姿は見えないが笑ったということだけは篁にもわかった。


「強情。そして、その不屈の精神。ますます気に入ったわ、小野篁。現世と常世の王となる我のうつわとして相応ふさわしき男よ」


 真備はそう言うと、右手を篁の胸に向かって突き出した。

 その右手は篁の胸を裂き、心の臓を剥き出しとする。


「篁よ、楽しかったぞ。もう、お前には用は無い。お前とは共存できるかと思っておったが、それは叶わぬ夢であったか。我はお前の身体だけをいただくこととする」


 真備はそう言うと、篁の心の臓を引き抜き、己の口の中へと放り込んだ。


 そして、篁の意識は闇の中へと消えていくのであった。

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