常嗣と篁(16)

「どうしたものか」


 藤原常嗣はため息交じりに言うと大宰鴻臚館の外へと目をやった。

 鴻臚館のすぐ近くには港があり、海の様子がよく見える。

 風が強く、海は時化しけている。

 これでは出航することは叶わぬだろう。


「どうしたものか」


 もう一度、常嗣は呟くように言った。

 独り言であろう。篁はそう思い、常嗣のことを放っておいたのだが、どうやらそうではないらしく、ちらりと常嗣は篁の方へと視線を送ってきた。


「私の乗る第二船は壊れておりませぬゆえ、すぐにでも出航することは出来ますが、常嗣殿の乗る第一船は修理せねば外海に出るのは不可能ですから、仕方ありません。三隻揃って出航するためにも、修理が完了するのを待ちましょう」

「そうじゃが……」


 篁のひと言を聞いて、少し安堵したような表情で常嗣は言う。

 何か理由が欲しいのだ。理由がなければ、なぜ唐へと向かわぬのかと朝廷よりお叱りを受けてしまう。それを常嗣は恐れているのである。


「なぜかわしの乗る第一船は破損することが多い。それに比べ、野狂殿の乗る第二船はあまり破損せんのは、どうしてじゃ? なにか特別なまじないでもしておるのか?」

「まさか。そのようなものは何もしておりませんよ、常嗣殿。先頭を行く第一船が破損しやすいのは仕方なき事です」

「そうか……」


 あまり納得はしていないといった表情の常嗣は、ふと何か思いついたかのように言葉を続けた。


「そうじゃ、わしの乗る第一船と野狂殿の乗る第二船を交換せぬか」

「なりませぬ」

「なぜじゃ?」

「第一船には、遣唐大使が乗ることとなっているからです」

「そうじゃが……。では、第二船を第一船と名前を変えて……」

「なりませぬ」


 篁はぴしゃりと常嗣に言ってのけた。


「うむ……」


 まだ納得のいかないといった表情の常嗣ではあったが、それっきり黙ってしまった。


「大宰府より平安京みやこには飛駅が行っているはずです。我らは、朝廷からの勅命を待ちましょう」

「そうじゃな。待つとしよう」


 常嗣はそう言うと、扇子で自らのことを扇ぎだした。



 その夜、篁のもとに客人がやって来た。

 従者より唐服を着た男だと聞いた篁は、ちん道古どうこに扮したがやって来たのだろうと思い、ひと払いをすると部屋にその客人を通すように従者に言い、しばらくは誰も来ないようにと伝えた。


「失礼いたす……」


 その声を聞いた瞬間に、篁は自分の愚かさを呪った。

 唐服を着た男だと聞いたので、勝手に沈道古だと思い込んでしまったのだ。

 目の前に現れた男は、確かに道服を着た男であった。


吉備きびの真備まきび……」

「久しぶりじゃのう、小野篁」


 にやりと笑った真備は、伸ばした右手で篁の顔を掴むと一気に力を込めた。

 ものすごい力だった。身長は篁の方が大きいため、持ち上げられるということは無かったが、頭が割れそうなくらいの力で篁の頭は締め付けられていた。

 篁は自らの両手で伸ばされた真備の右腕を掴むと、自分を中心に真備の身体を振り回すように動いた。

 部屋のあちこちに真備の身体がぶつかり、調度品などが壊れる。

 それでも真備は篁の顔を掴む手の力を緩めようとはしなかった。

 篁は、くつのつま先で真備の向う脛を蹴りつけると、そのまま真備の腕に絡みつくように身体を動かした。

 真備の肘辺りから、ミシミシと骨が軋む音が聞こえる。

 それでも、真備は篁の顔を掴む力を緩めなかった。

 篁は真備の肘に掛ける力をさらに込める。

 骨が砕ける音……が、聞こえるはずだった。

 その瞬間、真備は力を抜いて、するりと篁の腕から逃げていた。


「やるな、小野篁よ」


 距離を取った真備は肘の辺りをさすりながら、言う。

 篁の額からは、鮮血が流れ出て来ていた。


「もう少しで、お前の脳を破壊出来たというのに」


 真備はにやりと笑った。

 これだけ派手に暴れたにもかかわらず、従者は誰もやってこなかった。

 おかしい。篁はそのことに気づいていた。

 おそらく、ここは真備の術中なのだ。

 現世ではない、別のどこかへと篁は連れて来られてしまったのだろう。


「なにが目的だ、吉備真備」

「目的か……。それはただ一つ。現世と常世の王となることよ」

「愚かな」

「なにが愚かなものか。お前にはわからぬであろう、篁」

「ああ、わからぬ。わからぬは」


 そう言いながら、篁は真備に気づかれぬように愛刀である鬼切羅城の姿を探す。

 しかし、いつもおいてある場所に鬼切羅城は存在しなかった。


「良い、良い。わからぬことをわからぬと素直に申す、それが篁、お前の良いところよ」

「黙れ」

「黙らぬわ。我はその目的を達するために、お前の身体が必要なのだからな」

「なんと……」

「篁よ、我と共に王となろうぞ」


 真備はそう言うと、篁に手を差し出した。

 その時、篁はそこにある違和感に気づいた。

 いままで吉備真備だと思っていた目の前に立つ男が、まったくの別物として見えたのだ。

 いよいよ、正体を現したか。篁はそう思い、言葉を発した。


「お前は、誰だ?」

「何がじゃ」

「お前は、真備では無かろう。真備の身体を乗っ取った邪の者よ」


 篁の言葉に真備はにやりと笑った。


「わかっておるではないか。誰かがお前に入れ知恵でもしたかな。例えば、冥府の連中とか」

「夢を喰らう、鬼。名を鍾鬼しょうきと言ったかな」

「ああ、そういえば、そのような名で呼ばれていたこともあったな。だが、いまの我は真備じゃ。吉備真備。それが我の名じゃ」

「なるほど、真備に取り込ませたと思わせておいて、逆に喰らったというわけか」

「ほう、物わかりの良い男じゃな。ますます、お前のことが欲しくなったぞ、篁よ」


 真備は嬉しそうに笑って見せた。

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