常嗣と篁(10)

 吉備真備が唐へ渡ったのは、いまから八〇年以上前のことである。

 しくも、真備は篁と同じく遣唐副使であり、唐には二度渡っていた。


 真備が鬼と出会ったのは、二度目の遣唐使の時であった。

 唐の役人との行き違いから恨みを買ってしまった真備は、とあるろうへと幽閉されてしまった。

 楼というのは、高く構えた建物のことであり、ちょっとしたものみの塔のようなものを想像してもらえれば良いかと思う。

 その楼はいわく付きの建物であり、夜になると鬼が現れるという噂があった。

 真備などは鬼に喰われてしまえばよい。唐の役人はそう考えていたのだろう。


 夜になり、楼の扉を叩くものがいた。

 きっと、鬼だろう。真備はそう考え、扉を開けなかった。

 しばらくすると、男の声が聞こえてきた。


「真備、我じゃ。開けてくれ」


 どこかで聞いたことのある声のような気がした。

 しかし、その声の主を真備は思い出せずにいた。


「なぜ開けてくれぬのだ。我のことを忘れてしまったか、真備よ」


 そう言われた時、真備は声の主のことを思い出した。

 かつて共に唐へと留学した仲間である阿倍あべの仲麻呂なかまろである。


「仲麻呂なのか」

「そうじゃ。開けてくれぬか、真備」

「わかった。開けよう」


 真備は楼の扉を開けた。

 すると風が吹いた。あまりにも強い風であり、真備は顔を覆うようにして後ろに下がった。

 真備が目を開けた時、目の前には黒い塊が立っていた。その塊は人の形を成しており、次第に目、鼻、口などが現れて、その姿を現した。


「お前は……」

「久しいの、真備」

「仲麻呂なのか」

「ああ、そうじゃ。阿部仲麻呂じゃ」


 黒い影は唐服を身に纏った若い男へと姿を変えていた。確かにその姿は、真備の知る仲麻呂であったが、遣唐使で共に留学した時の姿であり、歳は取っていなかった。


「そなたは、仲麻呂の生霊なのか?」


 阿部仲麻呂は唐で科挙かきょ(中国の官僚試験)に合格しており、現在は晁衡ちょうこうという名前で、唐の皇帝である玄宗げんそうに仕えている。そんな仲麻呂が、若き日の姿で現れたのだから、真備は生霊と疑うしかなかった。


「まあ、そのようなものじゃ。こちらには道術どうじゅつというものが存在してな」

「なるほど。それで私のもとへとやってきてくれたというわけか」

「左様。なんとかして、お主にここを出てもらい、我を国へ連れ帰ってもらいたい」

「ここを出てもらい、か……。ふざけるな、私は両国の友好の使者として来たはずなのに、このような楼に閉じ込められたのだぞ」

「すまぬ、真備。これには色々と事情があるのじゃ。それよりも、まずはお主のことをここから連れ出す必要があるな」

「出来るのか?」

「出来ぬことも無い」

「だったら、はやくここから出してくれ、仲麻呂」

「だが……」

「だが?」


 真備は仲麻呂に聞き返した。


「少々犠牲が必要だ」

「犠牲とは、なんだ?」

「真備よ、お主の夢はなんじゃ?」

「夢? 寝る時に見る、夢か?」

「違う、そちらの夢ではないわ」

「失礼。将来に実現させたいと思っていることの方だな」

「左様。真備には、夢はあるか?」

「あるといえば、あるが。それがどうだというのだ」

「この国には、それを喰らう鬼がおる」

「なんと……」

「その鬼に、お主の夢を喰わせる代わりに、ここから出してもらうのじゃ」

「そのようなことが……」

「明日の晩、その鬼が訪ねてくるはずじゃ。お主は、その鬼と契約を果たせ。さすれば、この楼からお主は出れるだろう。そして、国へ帰ることを許されるはずじゃ。その際に、我を連れて帰ることを忘れないでくれ」

「わかった。明日の晩だな」

「頼んだぞ」


 そういうと、仲麻呂の生霊は姿を消した。



 翌日の晩、仲麻呂の言葉通り、楼の扉を叩くものがいた。


「真備、我じゃ。開けてくれ」


 その声は昨晩聞いた仲麻呂の声にそっくりであった。


「仲麻呂なのか?」

「そうじゃ、開けてくれ」

「本当に仲麻呂なのか?」

「我に決まっているであろう。早く、開けてくれ」

「では、約束のものを持ってきてくれたか?」

「約束のもの?」

「ああ。昨夜、約束したではないか。金烏玉兎集きんうぎょくとしゅうを持ってきてくれると」

「そうであったか?」

「ああ。約束した」

「そうか、そうか。すっかり忘れておった。いま取ってくるから、待っておれ」


 そう声がしたと思うと、扉の向こう側の気配が消えた。

 もちろん、そのような約束はしていなかった。ただ、真備には帝から唐より金烏玉兎集の写しを持ち帰るように密命が下っていたのだ。せっかくだから、利用してやろう。そう真備は考えたのであった。

 しばらくすると、再び扉の向こうから声が聞こえてきた。


「我じゃ。持ってきたぞ」

「ほう、持ってきたか。では、入ってくれ」


 真備はそういって、扉を開けた。

 すると、昨晩と同じように黒い影の塊のようなものがするりと部屋の中へと入ってきた。


「私をここから出してくれるそうだな」


 真備は黒い塊をじっと見つめながら言った。

 すると、塊に目や鼻、口といった部分が現れて姿かたちが変わっていく。

 その目は黄色く濁っており、口には牙が見える。

 まさにその姿は鬼であった。


「面白き、男よ。我のことを知りながら、我を利用して『金烏玉兎集』を持ってこさせたというわけか」


 鬼は、にやりと笑う。


「では、話はわかっているであろう。お前の夢を我に喰わせろ」

「良いぞ。だが、その前にひとつ教えてくれ。私のことをどのようにして、ここから出られるようにするのだ。力技で抜け出したとしても、唐軍に追われるだけで、国には戻ることは出来んぞ」

「わかっておる。きちんとした形で、お前をここから出してやる」

「して、どのように」

「日月を隠す。さすれば、玄宗は慌ててお前をここから出すだろう」

「そのようなことができるのか」

「もちろんじゃ」


 鬼はにやりと笑った。


「では、さっそく、それをやってもらおうか」

「だめじゃ」

何故なにゆえ?」

「夢を喰わせてもらう方が先じゃ」


 舌なめずりしながら、鬼がいう。


「どうすればいいのだ」

「簡単なことよ。我に夢を語って聞かせよ」

「それだけで良いのか」

「ああ。聞かせよ」

「わかった。では、聞かせよう」


 真備は鬼の目をじっと見て、自分の抱いている夢を語って聞かせた。


 そして、真備は遣唐使船に乗り、唐より帰国した。

 その一方で、仲麻呂は帰国することが出来なかった。仲麻呂の乗った船は暴風にあい難破してしまったのだ。

 命だけは無事であったが、その後、仲麻呂が日本の土を踏むことは無かった。

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