常嗣と篁(9)

 藤原ふじわらの常嗣つねつぐ大宰府だざいふに入った。

 その知らせを聞いた篁は、身支度を整えると、すぐさま太宰府の政庁へと足を運んだ。


 余談ではあるが、大宰府だざいふとは、和名では「おほみこともちのつかさ」と読む。おほみこともちつかさ。このように平安時代の言葉は、同じ文字であっても現代とは違った読み方をする場合が多かったりする。太宰府もそうだが、平安京も「たいらのみやこ」と呼ばれていたことに関しては、この小説の読者の皆様であればご存じのことだろう。


 閑話休題。


 政庁へ篁が訪ねていくと、大宰だざいの大弐だいにである藤原ふじわらの広敏ひろとしが出迎え、別室にいる常嗣のもとへと案内してくれた。

 藤原広敏と共に部屋へと入っていくと、そこには冷えた瓜をつまみ、従者に団扇で自らのことを扇がせて涼を取る常嗣の姿があった。


「常嗣殿、よくぞご無事で」


 元気そうな常嗣の顔を見た篁は、常嗣に声をかけた。

 すると、常嗣は従者に扇がせるのをやめさせ、篁の方へと目を向けた。


「おお、野狂殿か。そなたも無事であったか。私は運が良かった。高波を浴びて、本当に死ぬかと思ったわ」


 常嗣はそういって笑ってみせた。長い時間、海上にいたせいもあり、白かった常嗣の肌は浅黒く日に焼け、どこか精悍な顔立ちとなっていた。


「第二船は無事か?」

「はい。船は無傷ですが、西風のために進めなくなり、引き返してまいりました」

「左様か。第一船と第四船は多少の傷を受けたが、航行できないというわけではない。準備が整えば、再び唐に向けて出航できるな」

「常嗣殿、まだ第三船の行方が、わかっておりませぬ」

「そうらしいの。丹墀たじひの文雄ふみおめ、なにをやっておるのじゃ」


 罵るような口調で常嗣は言うと、従者の手から団扇をひったくり、自らのことを扇いだ。

 丹墀文雄は第三船の指揮を任された判官であり、その行方は未だにわかってはいなかった。


「無事だと良いのですが」

「そうじゃな。戻ってきたら言ってやるわ。なにをグズグズしておったのだ、と」


 そういって常嗣は大声で笑ってみせた。

 どうやら、この男については何の心配もいらぬようだ。篁は常嗣が落ち込んでいたりしたらどうしようかと思っていたが、それは杞憂だったと安堵した。


 それから数日後の晩。

 篁が大宰府内を歩いていると、声をかけられた。


「おい――――」

 篁は声のした方へと目を向けたが、そこには誰もいなかった。


じゃ。わからぬか、篁」


 どこかで聞き覚えのある声ではあったが、それが誰の声であるかを篁はすぐには思い出すことができなかった。


「どなたかな?」

「まさか、我のことを忘れたというのか」

「『我』とだけ言われましてもな」

広嗣ひろつぐじゃ。藤原ふじわらの広嗣ひろつぐじゃ」

「なんと」


 篁はその言葉に驚き、後ろに飛び退くと、太刀を抜こうとつかに手をかけた。

 藤原広嗣といえば、羅城門で死闘を繰り広げた怨霊であった。広嗣はあの時、雷に打たれて爆死したはずである。


「我に驚いたか。ここ太宰府は元々は我の居場所じゃ」


 広嗣の声は笑っていた。

 生前、藤原広嗣は大宰だざい少弐しょうにであった。


「何の用だ」

「そう殺気立つな、篁。我は以前のような怨霊ではない」

「そう言われても信じられるわけがなかろう」

「わかっておる。だが、本当なんじゃ。我の肉体はすでに滅びており、怨霊としての力も失っておる。なんだったら、閻魔に問うてみるがいい」

「……そこまでいうのであれば、信じよう」


 篁がそう言うと、ぼんやりとした影のようなものが木の陰から姿を現した。その影は次第に色形いろかたちが整っていき、藤原広嗣の姿となった。


「久しいな、篁よ」


 広嗣はそう言うが、篁の印象では広嗣といえば皮膚はひび割れており、その割れた場所からは鬼火が溢れ出てこようとしていた怨霊の姿でしかなく、いま目の前にいるような人間の姿の広嗣と会うのは初めてのことであった。


「して、なぜ私の前に再び姿を現したのだ」

「少しばかりお主と話をしたくてな」

「どういうことだ」


 篁は警戒をした。この期に及んで何を言い出すのだ、この男は。そう思っている。


「唐へ行くそうじゃな」

「なぜそれを」

「大宰府にれば、そんな話は嫌でも耳に入ってくる。それよりも、問題は唐のことよ。誰かに唐で待っておると言われてないか」

「……知っておるのか」

「やはりか」


 広嗣はため息をついた。


「どういうことだ、広嗣」

「唐には、真備まきびの秘密がある」


 ここで真備といえば、吉備きびの真備まきびのこと意外に思い当たる節はなかった。


「秘密?」

「ああ。かつて、あやつも遣唐使船でニ度ほど唐へと渡っておる」

「それは私も知っている。遣唐使に関する記録はすべて読んだ」

「では、この話を知っておるか。吉備真備が唐で鬼とうておることを」

「なんと……」


 篁の驚いた顔を見て、広嗣はにやりと笑みを浮かべた。

 そのような話はどこの書物にも書かれてはいなかった。しかし、少し考えてみればわかることである。篁が読んだのは、すべて朝廷にある公式な書物であり、それは記録であった。まさか公式な記録に鬼と会ったなどという話を残すわけがなかった。


「その話、詳しく聞かせてもらえぬか」

「もちろんだとも。この話をするために、我は篁がここに来るのを待っていたのじゃ」


 そういうと、広嗣は吉備真備と鬼の話を語り始めた。

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