常嗣と篁(5)

 朝、目が覚めた時、すべてが夢であってくれればと思いながら、篁は自分の右腕を見つめた。

 右腕には、墨で描いたように奇妙な模様がくっきりと現れている。

 昨晩、藤原ふじわらの並藤なみふじが施してくれた陰陽道の術によって、痛みはだいぶ収まってきていたが、右手に力が入らなくなってきていることは確かだった。


 並藤によれば、このしゅを止めていられるのも、あと三日程度だろうとのことだった。三日経てば、並藤の施した術は解け、呪によって篁の体は蝕まれてしまうそうだ。

 あと三日以内に、どうにかせねば。


 篁は起き上がると、朝餉あさげもそこそこに屋敷を出た。

 向かう先は決まっていた。藤原常嗣の屋敷である。すべてのはじまりは、常嗣にあった。常嗣が豊並の話を篁に聞かせ、その話を聞いたことより篁がこのような目にあったのだ。別に常嗣があやかしと繋がっているといったことを疑っているわけではない。ただ、最初から事のあらましを洗い直す必要があると思ったから、常嗣を訪ねることにしたのだった。

 篁は右手を着物の袖で隠すようにしながら、徒歩で常嗣の屋敷へと向かった。


「常嗣殿は、いらっしゃいますかな」


 ちょうど屋敷の門扉のところにいた顔見知りの常嗣の家人に、篁は訪ねた。


「大変申し訳ございません、いま常嗣は不在にしております」

「なんと……」

「朝から急な仕事が入ったと言って、内裏だいりへ」

「そうであったか。わかった」


 篁は常嗣の屋敷の門前できびすを返すこととなった。

 常嗣が忙しいのはわかっていた。遣唐大使という役職に就いていると同時に右大弁という職にも就いているのだ。

 右大弁とは、朝廷の最高機関である太政官の右弁官長であり、現代でいうところの内閣官房長官のような役割を果たす職であった。

 常嗣が内裏に出掛けているとあらば、それを追いかけていくわけにもいくまい。そう考えた篁は常嗣に会うことを諦め、代わりに常嗣の妻であるともの右大うだいを訪ねることにした。

 ただ、篁が直接、伴右大に会うことが許されるわけがなかった。この時代、家族や夫婦でもない男女が面と向かって会うということは、まずあり得ないことなのだ。

 そのため、篁は伴右大の屋敷の近くで伴右大が外出してくるのを待つことにした。

 しばらくして、屋敷の車宿の門が開き、牛飼い童と牛車が現れた。

 それを見た篁は、さりげない様子で牛車に近づいていく。

 先に声を掛けて来たのは、伴右大の方からだった。

 偉丈夫と呼ばれるほどに大きな体の篁は、歩いているだけでも目立つのだ。


「もし――――」


 牛車の中からそう呼びかけられ、篁は歩みを止めた。


「小野篁様でございましょう」

「右大様、お久しぶりでございます」


 篁は牛車の御簾越しに伴右大の姿を認めると、挨拶を交わす。

 男女が言葉を交わす時、直接顔を見せるわけにはいかなかったが、御簾越しであれば問題はなかった。


「実は、右大様をこちらでお待ちしておりました」


 篁は正直に話した。

 その言葉に伴右大は少し驚いた顔をしてみせたが、すぐに冷静になり、言葉を発した。


「どのような御用でしょうか」

「右大様に、いま一度思い出していただきたいことがございます」

「そなたはわたくしの恩人じゃ、なんなりと申してくだされ」

「以前、法師とお会いになったはずですが、どこぞの法師であったかを思い出していただければ……」

「その話ですか……。そうじゃ、この牛飼い童が覚えているはずです」


 伴右大はそう言って、牛飼い童に法師のことを篁に話すよう伝えた。

 牛飼い童は、二十歳そこそこの男であった。顔はなかなか整っているが、牛飼い童特有の垂髪に水干という姿はどこか子どもっぽさを思わせた。


「ああ。それでしたら、化野あだしのにある廃寺となった場所に住み着いている法師ですね。少々薄気味悪いが、以前、私の弟の病を治してくれたことがありますので、腕は確かな法師ですよ」


 この時代、医者という職業は存在していなかった。人の病などを見るのは、陰陽師や僧の仕事であり、平癒のために祈祷などを行ったりしていた。この法師も僧くずれのような者なのだろう。


「ほう。その法師というのは、どのような人なのだ」

「蓬髪の白髪頭をした老人です。襤褸ぼろを着ていますが、背筋はピンとしており、あまり老人のようには見えなかったと記憶しております」

「なるほど。わかった、ありがとう」


 篁は伴右大と牛飼い童に礼を告げ、その法師がいるという寺を訪ねてみることにした。

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