常嗣と篁(4)

 その日は夜になってから、また雪が降りはじめた。

 いつもより一枚多めに着物を羽織った篁は、妻である藤の屋敷の縁側で火桶ひおけにあたりながら雪見酒を楽しんでいた。

 最初のうちは付き合ってくれていた藤だったが、時が経つとともに寒さに耐えられず、部屋へと戻ってしまっていた。

 しんしんと降り続く雪を見ながら、篁はひとり川魚の干物を火桶で炙りながら、盃を口へと運ぶ。


 夫婦仲は、悪いというわけではなかった。ただ、時おり、篁の思いつきや行動に藤がついていけないだけであり、仲は悪くないのだ。

 いまでも篁は、藤にふみをしたためることがある。内容は季節の事柄であったり、その時に思いついたことをうたにしたものであった。


 藤が再び縁側に顔を出した時、篁の姿はそこにはなかった。

 篁が使っていた盃の脇には一通の文が置かれている。

 藤はその文を大事そうに手に取ると、部屋の中へと戻っていった。


 篁は雪の中を歩いていた。

 雪の晩は、いつもより辺りが明るく感じられるから不思議だ。

 相変わらず、篁は闇の中を灯り無しで歩いている。

 雪はうっすらと積もっており、篁の足跡を残していた。

 ふと思い立ち、篁は足を自分の屋敷とは別の方へ向けて歩きはじめた。

 朱雀大路を横切り、神泉苑の裏手へと向かう。

 そう、そこは昼間に藤原豊並と共に訪れた場所であった。

 気になることがあると、そのことを調べなくては気がすまない。幼少の頃から変わらぬ性格である。父や母はさぞかし手を焼いたであろうと、自分のことながら篁は思っていた。


 藤原豊並が三つ目の老人のあやかしを見たという場所。そこには、一体の地蔵があった。

 篁はそこにしゃがみ込み、地蔵の顔をじっと見つめた。

 不思議な地蔵だった。額のところには、見たこともない文字が書き込まれている。

 これは何なのだろうか。

 篁は疑問に思い、その地蔵の額に書かれた文字を触ろうとした。


「待たれよ」


 突然、闇の中から声がした。

 少し離れた場所から、ぼうっと灯りが近づいてくる。それは松明の炎だった。


「篁殿、それには触れてはならぬ」


 灯りの中に見えた顔、それは藤原ふじわらの並藤なみふじ豊並とよなみの親子であった。


「並藤殿。どうして、こちらへ」

「息子から話を聞きましてな。なんとも妙だと思い……。とんだ親馬鹿ですが」


 並藤は苦笑いを浮かべながら言った。

 藤原並藤。数年前までは陰陽おんみょうのかみという、陰陽寮の長官を務めていた人物である。基本的に陰陽頭は、陰陽師ではなく朝廷の決めた公卿が務めることが多いのだが、並藤の場合は自身も陰陽師であった。


「して、この文字は何なのでしょうか?」

梵字ぼんじといいまして、我ら陰陽師や僧が使うものです」

「何が書かれているのでしょう」

「これは、かなり古いものです。何かを封じる際に使う文字と似ておりますな」

「何かを封じる……」

「ええ。この場所で、豊並は三つ目のあやかしを見たと言っております。もしかすると、そのあやかしが関連した封印なのかもしれませぬ」


 並藤の言葉に、豊並は強張った表情を浮かべていた。


「それにしても、奇妙な文字だな」


 篁は呟くように言い、その文字の書かれている地蔵の額を覗き込む。

 その時だった。地蔵の額に書かれていた梵字がウネウネとまるで蛇のように動き出したのだ。


「さがられよっ」


 叫ぶように篁は言うと、腰に佩いていた鬼切羅城へと手を伸ばす。

 次の瞬間、地蔵の額に書かれていた文字が蛇に変化し、篁へと飛びかかってきた。

 篁はその蛇を斬り落とそうと、鬼切羅城を抜き放った。

 しかし、蛇は空中で身をひねるようにして、篁の斬撃をかわした。


「篁殿っ!」


 とっさに豊並が篁の腰のあたりにしがみついて、篁とともに雪の中へと転がる。

 蛇は篁の心の臓を目掛けて飛んできていたが、豊並がぶつかったことによって狙いが外れ、篁の右手にぶつかった。


「危なきところを助かりましたぞ、豊並殿」

「いかん、篁殿の腕に」


 豊並がそう言うと、篁は自分の右腕へと目をやった。

 そこには奇妙な模様のようなものが刻み込まれていた。


「なんだ、これは」


 篁が驚きの声をあげると、その模様は蛇のようにうねうねと動き、篁の腕を登ってこようとした。


「そうはさせぬ」


 並藤が懐から取り出した札のようなものを篁の腕に貼り付ける。

 すると、その模様は動かなくなった。


「何なのですか、これは」

しゅですな」


 急に篁は右腕に痛みを覚えた。じりじりと焼けるような痛みである。その痛みは、さきほど腕に巻き付いた蛇のようなものが感じさせているように思えた。


「呪とは何なのです、並藤殿」

「簡単に言えば、呪いです。陰陽道では厭魅えんみなどと呼んでいる呪法じゅほうのひとつで、相手を呪い殺したりする際に使うものだったりもします」

「なんと……」


 驚きの声を上げたのは篁ではなく、豊並の方だった。

 腕がひどく痛み、篁の額には脂汗が浮き上がってきている。


「篁殿、呪の進行を止めることは出来たが、私にはその呪を解くことまではできぬ」

「では、どのようにすれば……この呪を解くことが出来るのでしょうか、並藤殿」


 歯を食いしばりながら篁が言う。


「この呪を掛けた者に解かせるのが一番なのですが、誰がこのような呪を掛けたのかは……」

「わかりました。この呪を掛けた者を探せばよいのですね」

「しかし……」


 困惑する並藤と豊並を尻目に、篁は腕の痛みに耐えながら、自分に呪を掛けた者が何者なのかを考えていた。

 今回の事の発端は、藤原常嗣にある。常嗣が呪を掛けたとは考え難いが、常嗣に近い者で呪が操れるものはいないだろうか。そこまで考えた時、篁の脳裏にひとりの人物が思い浮かんだ。

 以前、ともの右大うだい生霊いきりょうを飛ばした際に、彼女に入れ知恵をした法師ほうしがいたはずだ。生霊の飛ばし方を知っているような法師であれば、呪を掛けることも可能に違いない。

 しかし、その法師がどこの誰であるかはわからなかった。伴右大でさえも、その法師についての記憶は曖昧なのだ。


 どうすれば、良い。どうすれば、良いのだ。

 篁は自問自答を続けた。

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