余談、広嗣の怨霊と刀岐浄浜について

 物語の腰を折ってしまうようではあるが、作者としてどうしてもこれだけは書いておきたい。そんな思いを込めた作中エッセイでございます。


 ここは物語を読んでいくにあたって、特に読み飛ばしても問題ない箇所です。ただ、作者がこんなことを思いながら物語を書いているんだということが少しでも伝わればと思いながら書いております。

 もし、時間があるようでしたら一読いただけると、非常に嬉しいです。


 まず広嗣の怨霊を語るにあたり、藤原ふじわらの広嗣ひろつぐとはどんな人物だったのかということを少しだけ掘り下げたいと思います。


 藤原ふじわらの広嗣ひろつぐは、奈良時代の貴族です。父は藤原ふじわらの宇合うまかい。そう、宇合は藤原不比等の三男であり、藤原式家の祖であります。そんな宇合の長男が広嗣です。ええ、広嗣は生まれ持ってのエリートなのです。


 父である宇合は、式部卿という役職ながらも、蝦夷の反乱を鎮めたり、長屋王ながやおうの変では自ら近衛兵を率いて長屋王の屋敷を包囲するなど、武人としての一面も見せていた人でした。

 しかし、そんな宇合が44歳の時に疫病(天然痘)によって薨去こうきょしてしまうのです。当時、天然痘はみやこであった平城京内で大流行し、後に『天平の疫病大流行』と呼ばれるほどでした。この天平の疫病大流行では、宇合以外の藤原兄弟も疫病によって病没しており、時の権力者であった藤原四兄弟の死は、長屋王の怨霊の仕業であると噂になったそうです。

 この時代の人々って、何かにつけて怨霊の仕業にするのが好きですよね。


 そんな宇合の長男であった広嗣は、父が存命のうちは出世の階段を駆け上がりましたが、父の死後は、藤原四兄弟と政敵であったたちばなの諸兄もろえが政権を握るようになって、出世もままならなくなってしまいました。

 何とか中央に返り咲きたい。そう考えた広嗣は、橘諸兄の重臣であった吉備きびの真備まきび玄昉げんぼうを排除しようと、上奏文を朝廷に送ります。

 しかし、この上奏文は政権批判であり、広嗣の謀反であると橘諸兄に捉えられてしまったのです。

 時の帝であった聖武天皇は、広嗣に弁明の機会を与えようと召喚状を出しますが、広嗣はその召喚状が橘諸兄側の罠だと考え、召喚状には応えず、軍を持って蜂起したのです。

 これが世にいうところの『藤原広嗣の乱』です。


 この時の広嗣の言い分は、朝廷に歯向かっているのではなく、吉備真備と玄昉のふたりが朝廷を食い物にしてダメにしていっているので、ふたりを政治から遠ざけるべきだというまっとうなものでした。しかし、そんな言い分が通じるわけもなく、朝廷から派遣された討伐軍は広嗣を捕らえ、広嗣のことを処刑してしまいます。


 はい、歴史的な話はここまで。


 ただ、広嗣の話はここから先があります。

 討伐軍を差し向けられて、処刑されたことを恨んだ広嗣は怨霊となり、自分を罠にはめた諸悪の根源である玄昉を呪い殺します。


 その殺し方は、玄昉を引き裂いたというのですから恐ろしいことですよね。

 しかも、引き裂かれた玄昉の身体はバラバラにされて、日本の各地に散らばされたといいます。広嗣の怨霊恐るべしですね。


 なぜ、玄昉が広嗣にここまでされたのか。それは玄昉が藤原ふじわらの宮子みやこと不倫の仲にあったためとも言われています。

 藤原宮子は太皇太后(先々代の帝の妻)であり、藤原不比等の長女でもありました。広嗣からしたら、叔母ですね。

 一介の僧であった玄昉がなぜここまで出世できたのか。それは藤原宮子の力が及んでいたという説もあったりします。そういったこともあり、広嗣は玄昉のことが許せなかったのでしょう。


 広嗣の怨霊は、最終的には吉備真備によって鎮められます。

 佐賀県唐津にある鏡神社は、広嗣の怨霊を鎮めるために作られた神社であるという説もあったりするようです。


 広嗣と吉備真備の話はこのくらいにしておいて、今回の話でもうひとりの重要人物だった刀岐ときの浄浜きよはまについて、少し書きたいと思います。


 刀岐浄浜は朝廷の陰陽寮に属する陰陽師で、暦博士という役に就いていました。

 前作TAKAMURAから読んでいただいている方はご存じだと思いますが、篁とコンビを組んで化け物退治を何度かしていたりもします。


 実際の刀岐浄浜という人物はどのような人物だったのでしょうか。

 色々と私も調べてみましたが、刀岐浄浜に関する情報はほとんどありません。

 わかっているのは、刀岐浄浜という名前と陰陽師であったということ、暦博士だったということ、それと日蝕にっしょくが発生する際は事前に朝廷へ陰陽師が上奏するという習わしだったにもかかわらず、上奏しなかったことを咎められたということくらいです。

 また浄浜の死後、暦道こよみどうを相続できる者が陰陽寮にはいなかったため、暦術の心得があるものを朝廷に呼び寄せるために御暦奏の儀式が一か月遅れてしまったという記録が残されています。


 篁と同年代を生きた陰陽師として、唯一名前の残されている人物であったため、この物語では重宝させていただきました。


 浄浜の死については、先に書いたように暦道の相続がされなかった問題があったため、歴史書にもきちんと記録が残されています。死因までは書かれていませんが、浄浜は833年に亡くなったとのことです。

 そう、この物語は833年頃の平安京について書かれています。


 今回の浄浜の死因は落雷(吉備真備の召雷の術)によるものとしていますが、平安時代には落雷で亡くなる人も多かったそうです。有名なのは、もう少し後の年代になりますが、930年に発生した清涼殿の落雷が有名ですね。死傷者が10人近く出たこの落雷は、菅原道真の怨霊によるものだと当時の平安京では噂になったそうです。

 やっぱり、平安時代の人々は怨霊が好きなんですね。


 陰陽師というと、安倍晴明の物語のイメージが強いため、様々な術を使ってあやかしや魔物をやっつけると思いがちですが、実際の陰陽師たちは天気を見たり、占いをしたり、雨乞いの儀式をしてみたりといったことが、主な仕事であったようです。


 この物語では浄浜を通して、陰陽師というものを描いてみましたが、いかがだったでしょうか。


 物語はまだ序盤(実は、まだ二話目です)。これからも篁の活躍に期待していただければと思います。

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