広嗣の怨霊(11)

 屋根の上で体勢をなんとか立て直した篁は、鬼切羅城で広嗣へと斬りかかった。

 その太刀を広嗣はつるぎを使って上手く受け流す。

 篁の腕は決して悪いものではなかった。ただ、それ以上に広嗣の腕が上だといえるだろう。しかも、広嗣は右手一本で剣を振るっているのだ。格が違う。篁は広嗣の剣技けんぎをそう捉えていた。

 広嗣のひと振りひと振りは確実に急所を狙ってきているものであり、その剣に斬られれば、致命傷は免れなかった。

 これは命のやり取りなのだ。篁は、そう実感しながら広嗣の剣を防いでいた。


 篁の太刀と広嗣の剣がぶつかり、闇夜に火花が散る。

 その一瞬だけ、周りが明るくなり、広嗣の顔がはっきりと見える。

 皮膚が崩れ、干からびた顔。死人。そう、広嗣は死人なのだ。九〇年前に死んだ男。怨霊として蘇ったが、封印された男。封印が解けて、再び現世に戻ってきた男。それが藤原広嗣という男なのだ。

 ふたりの間合いが縮まり、鍔迫り合いとなる。力と力がぶつかり合う。

 右手一本の広嗣だが、篁の両手で握った太刀と対等に渡り合っていた。それだけでも、広嗣の剣技の凄さがわかる。


「篁よ、を失望させるな。お前の力は、その程度なのか。その程度の力でみかどを守ろうというのか」


 広嗣が喋るたびに口の端からは蒼い炎があふれ出す。怨霊。その姿はまさに怨霊なのだ。


「黙れ、広嗣。お主は現世には居てはならぬ存在なのだ。冥府へかえれ」

「還らぬぞ、あのような場所は二度と御免ごめんじゃ。現世ここが我の居場所じゃ。我が現世ここの王となるのじゃ」

「くだらぬ……」


 篁は吐き捨てるように言った。その顔には失望が広がっている。


「なにっ!」

「くだらぬと言ったのだ、広嗣」

「我が王になることがくだらぬというのか、篁」

「ああ、くだらぬ」

「なぜじゃ、なぜくだらぬのじゃ」

「広嗣……いや、広嗣殿。貴殿はすでに死んでおるのだ。死んでいる者が現世うつしよの王になることは出来ぬ」


 篁がそう告げると、広嗣は急に力を抜き、剣を下ろした。


「やめじゃ。我の手を返せ、篁」

「どういうことだ……」


 訳がわからず、篁は困惑の声を上げる。


「乗せられて百鬼夜行の親玉として現世に来てみたが、意味のないことをしておるとわかった。ほれ、はよう、我の手を返すのじゃ。手を返してくれれば、我は常世とこよに帰還する」

「あ、ああ……」


 篁は木箱を拾い上げると、木箱ごと広嗣に渡した。

 木箱を受け取った広嗣は、蓋を開けて中身を見ると悲しそうな顔をした。


「我は死んでおるのじゃな」


 広嗣が何かを悟ったかのように言う。

 返す言葉は無かった。


 その時だった。

 北の方角で空が光った。

 それは星が墜ちゆく時に放たれる光のようだった。


「浄浜様っ!」


 花の叫ぶような声が羅城門の下から聞こえてきた。一体、何が起きたというのだろうか。


 篁が羅城門の下へと目を向けようとした時、視界の隅に人影が入ってきた。

 どこから現れたというのだろうか。ここは羅城門の屋根の上である。

 そこにいたのは、烏帽子に道服といった格好の男であった。

 男は宙に浮いている。

 訳が分からず篁がその男のことをじっと見つめると、目が合った。

 その時、男は笑った。

 嫌な笑顔だ。篁はそう思った。


 篁の視線に気づいた広嗣も同じように空を見上げる。

 広嗣の顔つきが変わった。怒り、憎しみ、哀しみ、その感情が混ざり合ったような何とも言えない顔だった。


「き……」


 広嗣がなにか言葉を発しようとした瞬間、また空が光った。


 いかずちだった。

 遅れて雷鳴が聞こえる。


 広嗣が倒れていた。

 もう一度、雷鳴が聞こえた時、広嗣の身体がぜた。


 落雷だった。

 雷が広嗣の身体を貫いたのだ。そして、雷に身体を貫かれた広嗣の肉体は爆ぜた。


「愚か者め」


 男が言った。嫌な声だ。冷酷で残酷な声。


 そして、男は闇の中に溶け込むように姿を消した。

 羅城門の屋根の上には、広嗣の左手が入っていた木箱だけが残されていた。

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