広嗣の怨霊(2)

 待ち人がやってきたのは、それからしばらく経ってからのことだった。

 忙しいのはわかっているため、ここで待つことには慣れていた。


「すまんな、呼び出しておきながら待たせてしまって」


 そう言いながら部屋に入ってきたのは、派手な道服を着た赤ら顔の大男であった。顔の半分は髭に覆われており、ぎょろりとした大きな目玉は黄色く濁っている。

 まさにその姿は、以前篁が恒貞親王に語って聞かせた男の容姿にそっくりであった。


「いや、問題ない。きょうも忙しいようだな」

「そうだな。茶を飲む暇もないくらいだ」


 赤ら顔の大男はそう言って倚子いしにどっかりと腰をおろした。そう、この男こそ、冥府の王、閻魔大王である。


 閻魔は手を叩いて配下の者を呼ぶと、自分と篁に茶を持ってこさせた。

 当時、茶といえば非常に貴重なものであり、公卿と呼ばれるような位の高い貴族や僧侶くらいしか口にすることはできなかった。しかし、ここは冥府である。貴重なものであっても、冥府で閻魔が入手することができないものなどは無かった。


「そういえば、東宮学士の役に就いたそうじゃな」


 閻魔は口元に笑みを浮かべながら篁に言う。


「ああ。別に自ら望んだわけではない。ただ、仕事である以上は全力でやるさ」

「お主らしい」


 そう言って閻魔は声をあげながら笑った。


 篁と閻魔の関係。平安京たいらのみやこに流れる噂では、篁は閻魔大王の冥府裁判の補佐をしているとのことだったが、あながちその噂も真実からかけ離れているものでもなかった。

 現世と冥府を篁が行き来しているということは噂通りであり、その点は間違ってはいない。ただ篁は噂と違って、閻魔大王の冥府裁判を補佐しているというわけではなかった。

 時おり、閻魔大王からの使いが現れて、篁は冥府へと呼び出されていた。冥府への入口。それは、あの六道辻にある珍皇寺の古井戸であった。もちろん、普通の人間が覗けば、その井戸はただの水汲みの井戸に過ぎない。ただ、篁がその井桁に足を掛けた時だけ、井戸は冥府への入口へと変化するのだ。

 誰が言い出した噂話であるかは不明であるが、火のない所に煙は立たぬという言葉もあながち間違ってはいないようだ。


「して、私を呼び出した理由は」


 茶を飲み、一服した後、篁は閻魔に問いかけた。

 閻魔が篁を呼び出す時。それは決まって、厄介ごとが持ち込まれる時でもあった。

 その言葉に閻魔は笑みを引っ込めると、襟を正すかのように閻魔は倚子へ座り直し、おもむろに口を開いた。


「ひとつ、見てもらいたいものがある」


 閻魔はそう言って、部屋の外で待機している羅刹を部屋の中へと呼びこんだ。

 入ってきた羅刹は、顔が鹿であり、体には唐人が着るような服を着た姿であった。

 最初の頃は、様々な動物の顔を持つ羅刹たちに篁も驚きを隠せなかったが、慣れというのは恐ろしいもので、今となってはどのような顔をした羅刹が現れても驚くことはなくなっていた。


 その鹿頭の羅刹の手には、長細い木箱があった。ちょうど剣が入るくらいの大きさの箱である。

 篁はその箱を見た時、どこか禍々しい気配のようなものを感じ取っていた。

 木箱は鹿頭の羅刹の手によって、机の上に置かれる。


「ご苦労。わしが呼ぶまで、部屋の外で待機しておれ」


 そう言って鹿頭の羅刹を下がらせた閻魔は、慎重な手つきで、その木箱の蓋を開けてみせた。


「これは……」


 木箱の中身を見た篁は思わず息を呑んだ。

 そこには、人間のものと思われる腕が一本入っていた。その腕は皮膚に覆われているが、全体的に干からびており、老人の腕のようにも見えた。


「これは、何なんだ?」

藤原ふじわらの広嗣ひろつぐの左腕じゃ」

「なんと……」


 篁は絶句した。

 藤原広嗣といえば、数十年前に朝廷に対して乱を起こし、討伐された者の名であった。

 しかし、その藤原広嗣の乱には奇妙な後日談がある。

 朝廷の討伐軍によって乱を鎮圧された広嗣は処刑されたのだが、その後、怨霊となり蘇ったのだという。

 そして、反乱のきっかけを作ったひとりの僧侶を襲った。

 襲われた僧侶は、聖武しょうむ天皇てんのうの頃に活躍した玄昉げんぼうという高僧であり、玄昉は広嗣の怨霊によって、その体を引き裂かれて死亡したと言われている。


「なぜ、そのようなものが、ここに?」

「宝物庫から、出してきたのだ」

「どういうことだ?」


 篁の問いに、閻魔は小さくため息をついてから言葉を発した。


「広嗣の怨霊が再び蘇り、現世に戻った」

「まさか……」


 ありえない話に篁は唖然とした。

 藤原広嗣が討たれたのは、いまから90年も前の話である。そのような昔の人間が、一度は怨霊になったからとはいえ、蘇って再び現世に戻ってくるなどという話は聞いたことがなかった。

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