野狂篁(6)
「お、おのれ……。お前は何者なんじゃ」
「私の名前を知りたいか」
「ああ……」
篁の放った縄によって捕らえられた老婆は屋根の上から引きずり下ろされ、いまは篁の足元に転がされている。
「小野篁だ。よく覚えておくがよい」
「なんと……」
老婆は篁の名を聞いた途端に観念したような顔つきになった。
「その様子では、私の名を知っているようだな」
「ああ、知っておる」
「どこで聞いた」
「その法師が言っておったわ。もし、小野篁と名乗る人物が現れたら、すぐに逃げろと」
「ほう。その法師は私のことを知っていたというのか」
「それは知らぬ……」
老婆は首を横にぶるぶると振って言った。
さて、どうしたものか。篁は考えた。老婆のあやかしを捕らえてみたはいいが、どうすれば良いのかがわからなかった。現世の人間であれば、
そのようなことを考えていると、どこからか鈴の
囲まれている。全部で九人。
周りの気配で、篁は状況を察した。
老婆のあやかしを捕らえてた縄から手を離し、ゆっくりと腰に佩いている
「待たれよ」
どこからともなく、声が聞こえてきた。
その声に篁は聞き覚えがあった。
闇の中から姿を現したのは、白い水干に烏帽子という姿の小柄な男であった。化粧でもしているかのように肌は白く、唇は紅を差したかのように赤い。
「皆の者、下がられよ。このお方は、弾正少弼の小野篁殿だ」
そう言って、刀岐浄浜は闇の中から篁を囲むようにしていた四人を下がらせた。
四人は浄浜と同じように白の水干に烏帽子という格好であり、陰陽寮の人間であろうということが安易に想像できた。だが、残りの四人は得体が知れなかった。おそらく人ではない。さらにいえば、現世の者でもないだろう。陰陽師たちは
浄浜の言葉に従い、四人は後ずさりするようにして、ゆっくりと篁との距離を取った。
「これが野狂か……」
誰かが呟くように言った。
ふと気づくと、あの老婆のあやかしは姿を消していた。どうやら、この騒ぎに便乗して逃げ出したらしい。
まあ、よい。
篁は老婆のあやかしを見逃してやることにした。いまは、老婆のあやかしよりも、時を見計らったかのように現れた陰陽師たちの方が気になる。
「浄浜殿、このような時間にどうかされましたかな」
「それはこちらの台詞です、篁殿」
闇の中からじっとこちらを見つめながら、浄浜が言う。
距離は開いたものの他の四人は、まだ篁のことを囲むような臨戦態勢を崩してはいなかった。
「私は妻の屋敷から帰る途中に、伴右大様にお会いしたのでお屋敷まで送って差し上げたところだ」
「ほう、伴右大様と一緒だったか」
すでに伴右大の姿はどこにもなかった。おそらく、老婆のあやかしが消えたことで、元の身体に戻ることが出来たのだろう。
「そちらは、何事かな。これだけの人数を引き連れて」
「陰陽寮に、あやかしが出没していると連絡がありましてね」
「なるほど。それは、どなたからですかな」
篁がそう尋ねると、浄浜は黙り込んだ。その眼はじっと篁の目を見つめている。
言わせるな、篁。そう浄浜の目は語っていた。
「言えぬ事情がある……ということかな」
その言葉に対しても、浄浜は無言を貫いた。
無言の意味。篁には、その意味が何となくわかった気がした。おそらく、浄浜が口にすることも
ふとそこで、篁の脳裏にひとりの人物の顔が思い浮かんだ。
藤原常嗣。伴右大の夫である。参議である藤原常嗣であれば、陰陽寮を動かすことは可能だろう。
夫が他の女のもとへ通っている。そのことを知った伴右大が、生霊を飛ばして妨害をしようとしている。誰かが、そのことを藤原常嗣に吹き込んだ。それを聞いた藤原常嗣は、妻の生霊をどうにかしようと考え、陰陽師である浄浜を動かした。
いや、もしかするともっと話は根深いかもしれない。伴右大に生霊のことを教えた法師を用意したのも常嗣であり、わざと生霊を飛ばさせ、あやかしを送り込み、その両方を消し去るために浄浜を動かしたのかもしれない。
もし、そうであれば、藤原常嗣という人物はとても恐ろしい男である。
これは篁の想像に過ぎない。真実は誰も知らないのだ。
「して、どうするのかな、浄浜殿」
「あやかしの姿はどこにもない。我々はそのことを確認したら引き上げるだけだ」
「ご苦労なことだ」
篁がそう言うと、浄浜はその
「野狂。誰がつけたかは知りませんが、お似合いですよ、篁殿」
浄浜は、ふふっと声を出して笑うと配下の陰陽師たちと共に闇の中へと消えていった。
今回の件は、誰が仕組んだことなのか。
伴右大と藤原常嗣。そして、法師と老婆のあやかし。
なにか、きな臭い気配を篁は感じ取っていた。
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