野狂篁(5)

 女は、ともの右大うだいと名乗った。

 もちろん、それは本名ではない。そう周りの人から呼ばれているというだけだ。

 伴右大といえば、あの藤原ふじわらの常嗣つねつぐしつである。伴は父親であるともの真臣まおみの伴から来ており、右大は夫である藤原常嗣の役職である右大弁うだいべんから来ていた。


「本当に貴女あなたは伴右大様でしょうか。私には現世の者には見えませぬが」


 思ったことを正直に篁は話した。


「騙されたのです」

「なんと」

「夫が他の女のもとへと通うという噂を聞きました。それを止めるようと、生霊を放つ事ができるという薬を法師から購入したのです……」


 伴右大によれば、その法師から購入した薬を飲み、生霊となって藤原常嗣の牛車の行く手を阻むことは出来たそうだが、その後が良くなかった。目的を果たして、屋敷に戻ろうとしたところ、寝ている自分の身体に戻れなくなってしまったのだという。


「このまま、元に戻れなくては鬼になってしまいます」

「ふむ……」


 これは困った。篁はそう思った。

 このまま朝を迎えれば、伴右大は鬼と化してしまうという。一番良いのは、その薬を売ったという法師に戻り方を尋ねれば良いのだが、その法師がどこにいるのかは伴右大も知らない。


「とりあえずは、伴右大様の屋敷に行ってみましょう」


 篁はそう言うと、伴右大に屋敷までの道のりを案内してもらった。


 なんとも奇妙な話であった。先ほど、牛飼童が困っているのを見つけたかと思えば、今度はその牛飼童の邪魔をしていた伴右大が自分を頼ってきた。何がどうして自分にばかり、このような話が舞い込んでくるのだろうか。篁は困惑しながらも、面白きことだとも思っていた。


「こちらでございます」


 伴右大の生霊が案内したのは、立派な門構えの屋敷の前であった。さすがは、いまの朝廷で飛ぶ鳥を落とす勢いを持つと言われている藤原常嗣の妻の屋敷である。

 屋敷の立派さに驚きながらも、篁はその屋敷に妙な気配が漂っていることに気づいた。

 現世の者ではない、常世とこよの者の気配がどこかにある。


 篁は辺りを見回した。幼き頃より、あやかしの類の姿を見ることが出来た。それは誰しもが見えるものだと思っていたのだが、そうではないと気がついた時、篁は自分の持つ能力ちからを呪った。なぜ、そのようなものが見えなければならないのか、と。


 篁に宿るそういった力は、小野家の遠い先祖に関係があった。小野家の氏族をさかのぼると、五代前の小野おのの妹子いもこに行き着く。妹子は推古天皇の時代に遣隋使として派遣された人物であった。さらに遡れば小野の氏族の祖は、武振たけふる熊命くまのみことという人物に当たる。この武振熊命は、飛騨地方に現れた鬼神である両面りょうめん宿儺すくなを退治したという記録が残されている人物であった。

 篁はそういった氏族の能力ちからをより強く受け継いでいた。そのため、あやかしの類を見ることも出来れば、そういった者たちを引き寄せたりするのだろう。


 闇の中に目を凝らすと、屋根の上に奇妙なものがいることに篁は気がついた。

 粗末な着物を身にまとい、痩せ細った体をした白髪の老婆である。

 あれは現世の者ではないな。きっと、あの者が悪さをしているに違いないと、篁には直感的にわかった。

 篁は道端に落ちていた小石を拾うと、その小石にふっと息を吹きかけてから、屋根の上にいる老婆のあやかしを目掛けて投げつけた。


「あなや!」


 投げられた小石は篁の狙い通り、老婆のあやかしに当たった。


「何をするのじゃ!」


 突然、小石を投げつけられた老婆のあやかしは、怒り心頭といった表情で篁のことを睨みつける。


「そのようなところで、常世とこよの者が何をしておる」

「なんと、のことが見えるのか」

「見えるから話しかけているのであろう」


 篁は笑いながら言う。


「なにようじゃ、我の邪魔をするでない」

「もう一度、聞こう。そのようなところで、何をしておるのだ」

「我はこの屋敷を見張っておるのじゃ」

何故なにゆえに?」

「うるさい男じゃのう」


 老婆は面倒くさそうに言う。


「この屋敷が、伴右大様のお屋敷であるということをわかっておるのか」

「誰の屋敷でも構わぬ。この屋敷の主は生霊として、外に出ていて留守じゃからな」


 何が面白いのかはわからないが、老婆は笑いをこらえきれないといった様子で言う。


「なぜそれを知っている」

「聞いたのじゃ」

「誰から?」

「法師じゃ」

「法師? 何者だ?」

「本当にうるさい男じゃのう。誰だっていいじゃろ。朝までに主が自分の身体に戻れなければ、主は鬼となる。さすれば、我が主の身体に入り込むことが出来るのじゃ」

「なるほど。そう法師に言われたのだな」


 図星だったようで老婆は黙り込んだ。


「そなた、騙されておるぞ」

「な、なにがじゃ」

「そのようなことは起こらぬ」

「なんと!」


 老婆は心底驚いたような顔をする。


「屋敷の主の生霊が戻ってこないとでも思っていたのか」

「しかし、現に戻ってきていないではないか」

「戻ってきていないと、なぜ思う」

「いや……それは……」

「戻ってきておるぞ、ここに」


 篁はそう言って、伴右大の姿を老婆に見せた。

 そして、それと同時に縄のようなものを老婆へと投げつける。


「あなや」


 その縄はまるで生き物のように老婆へと向かって飛んでいくと、老婆の身体に絡みつき、瞬く間に老婆のことを捕らえてしまった。

 この縄は、以前平安京で雷獣騒ぎがあった際に、雷獣を捕らえるために空海くうかいが篁に授けたものであった。

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