野狂篁(4)

 妻であるふじの屋敷についた篁は、先ほどの牛車の件を語って聞かせた。

 もちろん、牛車の主が藤原ふじわらの常嗣つねつぐであったことは伏せておく。

 藤の父親である藤原ふじわらの三守ただもりは、藤原ふじわら南家なんけの流れを汲んでおり、藤原常嗣は藤原ふじわら北家ほっけの流れを汲んでいた。この両家は元を辿れば同じ先祖に辿りつくのだが、現在は両家に交流などは無いようであった。


 藤原ふじわら四家しけと呼ばれる藤原家の流れは、その名の通り四つ存在する。元は藤原ふじわらの不比等ふびひらの息子たち四兄弟が起こした流れであり、長男の武智麻呂むちまろの南家、次男の房前ふささきの北家、三男の宇合うまかい式家しきけ、四男の麻呂まろ京家きょうけとなっている。それぞれの家名かめいについては、南家は祖である武智麻呂の邸宅が弟の房前の邸宅に対し南に位置したことに由来であり、北家は祖の房前の邸宅が兄武智麻呂の邸宅より北に位置したことがこの名の由来。式家は祖である宇合が式部卿を兼ねたことから式家と称し、京家は祖である麻呂が左京大夫を兼ねたことがこの家名の由来となった。


「それで、その牛車はどうなったのですか?」


 藤が興味深そうに聞いてくる。


「苛立ちを隠しきれなくなった、輿こしの中のあるじが『きょうは、やめにする』と言った途端に動き出したよ」

「まあ」

「おそらく牛車の前にいた女のあやかしは、主の妻か何かの生霊であったのだろうな。主を他の女のところへ行かすわけにはいかぬという、強い思いが生霊となって現れたに違いない」

「そんなことが可能なのですか」

「まあ、出来なくはない」

「でしたら、私も篁様が他の女のもとへ行こうとしたら生霊を飛ばしますわ」

「馬鹿なことを言われるな」


 篁は笑いながら言うと、藤の注いでくれた酒の入った盃を口元へと運んだ。

 篁と藤は仲の良い夫婦であった。篁には子が六人いたとされている。

 篁のしつの記録は、藤原三守の娘――藤以外に存在していないが、すべてが藤との間の子であるかはわからない。当時は一夫多妻が当たり前であり、女性に関しては本当の名前を家族や夫以外には名乗らないという風潮があったため、記録に残されていないだけかもしれない。

 ちなみに、篁の息子たちはあまり名を残すことが出来なかったが、その孫たちは名を残している。小野おのの好古よしふるは、藤原ふじわらの純友すみともの乱の際に、純友軍を撃退し武勇で名を馳せ、また歌人としても名を残している。好古の弟、小野おのの道風みちかぜは、道風とうふうとも呼ばれ、書道の神とまで言われるほどの人物であり、書道の三跡として名を残している。また歌人としても知られていた。そして、好古、道風の従姉妹には小野おのの小町こまちがいる。彼女も篁の孫なのだ(一説には篁の娘説もあり)。


 話の腰を折ってしまったので、物語に戻ろう。


 妻の邸宅でひと晩を過ごした篁は、日が昇る前に自宅へと戻ることにした。

 時刻は丑三つであり、妻はすっかり眠ってしまっている。

 篁はそっと寝所を出ると身支度を整えて、妻の邸宅を後にした。

 最初の頃は、妻の家人が篁に牛車を用意しようとしたり、松明を持たせようとしたりしたが、いまとなっては猫のように家から出ていく篁のことを気にしなくなっていた。牛車も松明も護衛もいらぬ。篁はそう妻の家人に伝えていた。


 月明かりだけを頼りに、篁は平安京たいらのみやこを歩く。

 時おり吹く風が心地よかった。

 さすがに丑三つ時ともなれば、平安京も人気ひとけは無くなる。


 辻を何度か渡り、自宅近くまで来たところで、ひとつ先の辻に女が佇んでいるのが見えた。ただ、その姿はどこかかすんでいるかのように見える。


 篁の脳裏には、先ほどの牛飼童の話がよぎった。まさかと思いながらも、もう一度じっと女の姿を見つめてみるが、やはり霞んでいた。


 なるほど。

 篁は独り言をつぶやいた。この女は現世うつしよの者ではないのだ。篁にはなぜか、そのことがわかった。


「もし……」


 ささやくような小さな声だった。距離はかなり離れている。しかし、篁の耳にははっきりとその声が聞こえた。

 聞こえぬふりをするべきだろうか。篁が悩んでいると、またその声が聞こえてきた。


「もし……。貴方様は東宮学士の小野篁様でございましょう」


 さすがにそこまで言われてしまっては、聞こえぬふりを決め込むわけにも行かない。篁は意を決して、その声に答えることにした。


「いかにも。私は小野篁です」

「良かった。良かった」

「どうか、なされたのですかな」

「このままでは、わたくしめは鬼となってしまいます」

「それはどういうことでしょうか」


 篁がそう聞くと、女はしくしくと泣きはじめた。

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