野狂篁(3)

 この辻に差し掛かる少し前、牛飼童は牛車の少し前を歩く女の後ろ姿を見ていたのだという。

 こんな夜中にひとりで歩く女は珍しいなと思いながらも、牛飼童はその女性の後ろを歩いていた。


 女は小さな明かりを灯し、牛車が追いつけない程度の速度で、前を歩く。

 なんか邪魔な女だな。

 牛飼童はそう感じていた。追い抜くか。そう思い、牛飼童は牛車を引く牛の体を竹でちょっと叩いた。そうすることで、牛は少しだけ牛車を引く速度を上げる。


 しかし、女との距離は縮まらなかった。

 こちらが速度を上げた分、女も速度を上げたかのように距離が縮まらないのだ。


 女は速足で歩いているというわけでもない。先ほどと女の歩く速度は変わってはいないように思える。

 しかし、女に追いつくことは出来ないのだ。


 そんなわけはない。牛飼童は牛の手綱を離して、自分だけ走って女の事を追い抜かしてやろうと考えた。

 牛飼童は走った。走るといっても、そこまで速度を上げる必要はない。女はちょっと前にいるだけなのだ。


 しかし、牛飼童は女に追いつくことが出来なかった。

 どんなに走っても、女との距離は縮まらないのである。


 ここで牛飼童は気づいた。女は現世うつしよの者ではない。なのだと。

 そう気づいたところで、急に牛車を引いていた牛が足を止めた。

 牛飼童が手綱を引いても、竹の棒で叩いても動こうとはしないのだ。


 前を見ると、女の方も歩みを止めていた。

 見えるのは白い着物を着た背である。

 長い髪は見えるが、顔はわからない。


 頼む、頼むから、動いてくれ。

 必死に牛飼童は牛車を引く牛を動かそうとした。

 しかし、牛は一向に動こうとはしなかった。


 そして、前にいる女も、その場でじっと動かない。


 牛飼童の恐怖心は、そこで限界を迎えた。

 牛車を置いて逃げ出してしまおうと思ったところで、不意に闇の中から篁に声を掛けられたというわけだ。


「女など、どこにもおらぬぞ」


 篁は自分が歩いてきた辻の方を見ながら言った。

 その言葉に牛飼童も驚いた顔をして、辻の方へと目をやる。


「えっ……。さきほどまでいたのですが」

「私はその辻の方から歩いてきたが、誰もいなかったぞ」

「そんなはずは……」


 なんとも奇妙な話であった。その牛飼童の前を歩いていた女というのはどこへ消えてしまったのだろうか。


 同じ道を反対側から歩いてきた篁は、女とすれ違ったことはなかったし、姿を見た覚えもなかった。一体、どういうことだろうか。


「何をしておる、まだ着かぬのか」


 牛車の中から声がした。口調からして牛車の輿に乗っているのは、どこぞの公卿のようだった。


「申し訳ございません、今しばらくお待ち下さい」

「もうよい。きょうは、やめにする」


 機嫌の悪い声だった。おそらく、牛車の主は女性の元へと向かう途中であったのだろう。


「大変申し訳ございません」


 牛飼童が謝りながら、牛に方向転換をさせると、先ほどまでまったく動かなかった牛が嘘のように歩きはじめた。


「なんでじゃ……」


 これには牛飼童も首を傾げる。


「失礼いたしました」


 牛飼童は篁に頭を下げて、去っていった。


 篁は牛車の輿に飾り付けられていた紋を見た。その紋は、参議である藤原ふじわらの常嗣つねつぐのものであった。

 この方向に、常嗣の屋敷も、その妻の屋敷もはないはずだ。きっと常嗣は、別の女のところへ向かうつもりだったのだろう。

 となると、牛車の前に現れたのは、妻の生霊か何かだろうか。常嗣を他の女の元へは行かせぬという気持ちから生霊を飛ばしてしまったのかもしれない。


 そんな想像をしながら、篁は去っていく牛車の後ろ姿を見送った。

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