野狂篁(2)

 小野篁の屋敷は、内裏だいりの南西に位置する場所に存在していた。

 内裏から見て北東は鬼門きもんに当たり、南西は裏鬼門うらきもんに当たる。なぜ、篁がこの場所に屋敷を構えたのかはわからないが、内裏の裏鬼門を守るという形で篁の屋敷が建っていたということだけは事実だった。


 屋敷といっても、妻と共に暮らしているというわけではなかった。この時代は結婚している夫婦であっても、同居するということはまず無かったのだ。基本は通い婚であり、夫が妻の屋敷へ赴いていくのが当たり前の風習であった。

 そして、篁も例に漏れず妻の屋敷へと、足繁く通っていた。


 ――――小野篁のしつ。室とは妻のことであるが、歴史書などにその名は残されてはいない。書かれているのは、藤原ふじわらの三守ただもりの娘であるということだけだ。

 これは当時の風習として、女性は本名を名乗らないという風習があったためである(本名を知るのは、家族と夫のみ)。そのため、平安時代の有名な女性たちも、実は本名ではなかったりする。

 清少せいしょう納言なごんは、清は本名の清原(父は清原元輔)から来ており、少納言というのは朝廷の役職の名前から来ている(ただし、清原家には少納言はいなかったため、どこから少納言を取ったのかは謎とされている)。

 また紫式部むらさきしきぶの場合は、式部の著書である源氏物語の登場人物『紫の上』から紫という文字が取られており、周りの人からは女房名として藤式部と呼ばれていたそうだ。藤は本名の藤原(父は藤原為時)で、その為時の官職が式部大丞しきぶたいじょうであったことから、藤式部と呼ばれていたとされている。このように、当時の女性たちの本当の名前はわかってはいない。

 小野篁も公式記録以外では、参議さんぎたかむらと役職付きの名前で書かれていたりするため、もしかしたら男性も正式な本名で呼ばれていた人は少ないかもしれないと考察ができる。公卿などの場合は、日本後紀などに役職と名前が記されているため、本名がわかっているが、下級役人などはどこにも記録が残されていないため、名前が不明であることが多い。

 というわけで、篁の妻の名前は、この物語では妻の父親である藤原三守の藤を取って、ふじとだけ呼ぶことにする。おそらく、当時であれば篁の役職を後ろにつけて藤弾正などと呼ばれていたのだろう――――。


 物語を篁の妻であるの話に戻そう。

 大内裏だいだいりでの職務を終えた篁は、夜になると必ず藤の屋敷へと出向いていた。篁くらいの身分の者ともなれば、数人の家人などを共に付け、場合によっては牛車に乗っていくところであろうが、篁という男はいつも徒歩であった。質素倹約。篁はそういう人間だった。貴族であるにも関わらず、着飾ったりもせず、俸禄に関しては貧しい友人などに分け与える。世間一般からみたら、篁はかなりの変わり者に見えただろう。それ故に篁はなどと言われたりしていたのかもしれない。


 その夜も、篁はひとり暗い夜道を歩いていた。共として家人などがついていれば、松明をかざして夜道を照らしながら歩いたりしているだろうが、篁はひとりである。

 夜道は慣れていた。若い頃から弾正台の役人として、夜の京内の巡邏じゅんらを行っており、道はすべて頭の中に入っている。そのため、松明の明かりが無くとも迷うことなく夜道を歩くことは出来るのだった。


 もう少しで藤の住まう屋敷に着くというところで、少し離れた辻に牛車が立ち往生しているのが見えた。


「どうかなされたのか」


 篁は牛車に近づいていくと、その脇に立っていた牛飼うしかいわらわに声をかけた。


 牛飼童というのは、牛車を引く牛の世話をする役職の人間のことである。名にわらわとついてはいるものの、中年や初老の牛飼童も少なくはなく、いま篁が声を掛けた相手も中年の牛飼童であった。


「あなや!」


 突然、闇の中から現れた篁に牛飼童はぎょっとした顔をして見せ、驚きの声をあげた。

 その顔はまるで幽霊でも見たかのように強張っており、いまにも気を失ってしまいそうな状態だった。


「すまぬ。驚かせてしまったな」


 篁が謝ると、ようやく牛飼童は落ち着きを取り戻した。


「どうかなされたのか」

「それがですね……」

 

 落ち着きを取り戻した牛飼童は、ぽつり、ぽつりと話しはじめた。

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