第87話 一方その頃弟は新しい友人を見つけた
実はラノのニンジン嫌いは、成人しても克服できていなかった。イースベルデを擁するガラクシアに生まれたからには野菜の好き嫌いは良くないと思い、貴族学校に行く前に直そうとしたこともあった。その甲斐あって全く食べられないことはないのだが、積極的に食べようとも思わない。
しかし気候が穏やかなイースベルデでは年間を通して栽培できる作物で、保存も利くことから、毎日と言っていいほど食卓に並ぶ。
「……パスカルの料理が恋しいな」
不正が発覚したことで全体が再調査されることになり、一層山積みになった書類を前にして、食堂に行かずに執務室で昼食を取るラノは小さくため息をついた。イースベルデの料理長も決して悪いわけではないので大きな声では言わないが、本邸の料理長というのは別格なのだと気付かされる。ガラクシア家の食の好みを熟知していたパスカルはニンジンの美味しい調理法を常に研究していて、ラノも彼の作るニンジン料理なら食べられた。入っていることがわからない味付けだったり、デザートに使われていたりしたこともあったほどだ。
「ノクスもいないし」
ノクスは時々、使用人たちがいない瞬間を見計らって食事中のラノの元に通りすがり、端に避けられたニンジンを見て「仕方ないなあ」と言いながら食べてくれることがあった。幼少期の経験もあり、ノクスは安全とわかる料理なら極端な好き嫌いをしない。
しかし頼れる兄もいない今、宿敵であるオレンジ色の根菜は自分でなんとかしなくてはならない。
「ラノ様、そのニンジンがどうかしましたか」
浮かない顔でシチューの中のニンジンをつついているラノの様子に、そばに控えていた女性が声をかけた。説明係として借りているうちに秘書のようなことをしてくれるようになった財政課の職員だ。立場をわきまえているのでメイドたちのようにあからさまに媚びを売ってくることはないが、周囲からの期待や圧力もあり、あわよくば気に入られようという魂胆が見える。
「何でもないよ。子どもが食べやすい、甘くて青臭さが少ないニンジンは作れないのかなって」
周囲が自分のことをどう見ているかは知っている。貼られたレッテルのとおりに振る舞ったほうが都合が良いことも。ニンジンが苦手だと伝えるのが恥ずかしいこともあり、ラノは曖昧に笑いながら最後のひとかけらを口に入れ、市民のことを思っているふりをした。
「品種改良は進んでいますが、まだ量産には繋がっていませんね」
「そうなんだ。今度視察しようかな」
「手配いたします」
頷いて速やかに部屋を出て行く女性の後ろ姿を見送り、
「気軽に話せる友達が欲しいな……」
ぽつりと呟いた。イースベルデに来てからは損得抜きで話せる相手がおらず、さすがにそろそろ疲れていた。ガラクシア家の権力を使えば貴族学校時代の友人を補佐として呼び寄せることもできるが、首都貴族には広大な農地は退屈だろう。
「もっと簡単に行き来できれば別だけど」
やはり街道は必要だという気持ちを新たにしながらも、とりあえずは今できることを考える。身分は問わず、あまり地位や権力に興味がなさそうなタイプで、できれば同年代の同性がいい。椅子の背もたれに身体を預けて上を向き、別邸と言えどその辺の貴族の本邸よりも大きい屋敷の高い天井を見つめ、
「そうだ、警備隊の訓練に混ぜてもらおう。同年代の人がいるはず」
ふと思いついて身体を起こした。最近の訓練は一人でするか、ガラクシアから連れてきた兵士たちと一緒に行うばかりだったが、東部警備隊と呼ばれる彼らもエドウィンの配下である以上はそれなりの練度を持っているはずだ。食事を済ませると早速訪問しても良いかという書面を綴り、持っていかせた。
どれだけ急であろうが、領主である前に王族であるラノの頼みを断ることはできない。すぐに返信が来て、翌日には中心街の警備を担当する中央区警備部の施設を見学できることになった。
ラノは純粋に興味深く見学していただけだったが、その物腰柔らかで無邪気な様子を見ても、案内する警備部長は気が気でない。イースベルデの治安を守る組織である以上、警備隊もラノが小領主の不正を発見したという話はもちろん耳にしている。探られて痛いほどの腹はなくても、何か指摘されるのではないかと冷や冷やしていた。
何事もなく案内は進み、やがて隊員が訓練を行っている広い修練場に着いた。若い隊員たちが汗を流している様子をしばらく眺めていたラノが、不意に言った。
「すみません、どなたか僕と手合わせをしてくれませんか」
「ラノ殿下!?」
瞬間、ここを案内すれば終わりだと思っていた警備部長、鍛錬を監督していた上官、そして警備隊の面々に緊張が走った。ラノの実力はイースベルデでも噂になっている。このふわふわした綺麗な顔の王子様に、本当にそんな実力があるのだろうか。良い印象を残せれば出世は間違いない。武術を嗜む者として単純に手合わせしてみたい。各々が様々な思惑を巡らせ、お互いに目配せした。
「そこのグレーの髪の彼。どうですか?」
牽制し合うせいでなかなか名乗り出る者がおらず、その間にラノは端に置いてあった備品の木剣を勝手に拝借し、同年代と思しき精悍な顔つきの青年に声をかけた。
「俺ですか」
アッシュグレーの髪に緑の目をした青年は、急に指名されて驚いた表情を見せながらも、おどおどとする様子もなく落ち着いている。
「名前を伺っても?」
「スヴェン・シャハトです」
きちんと敬礼と共にフルネームを名乗る姿は、職務に忠実で真面目そうだ。体つきや身のこなしを見ればそれなりの実力を持っていることがわかる。そして何より、指名された様子を見た他の隊員たちが『スヴェンならまあいいか』という、信用している顔をしているのが良い。ラノは政のことはよくわからないが、武人を見る目はあるほうだと思っていた。
「安心してください、スヴェン。うっかり怪我をしても文句は言いませんから」
スヴェンはちらりと警備部長と上官を見て、二人が渋い顔で頷いたのを確認すると、
「謹んで承ります」
と承諾した。
――結果的に、勝ったのはスヴェンだった。技術ではラノが押していたのだが、久しぶりに実力が肉薄する相手と手合わせをして楽しくなってしまい、足元が簡易礼服に合わせた戦闘に向かない革靴だったことを忘れて滑り、尻餅をついてしまった。
「申し訳ございません。大丈夫ですか」
スヴェンが慌てて手を差し伸べた。文句は言わないとは言っていたが、王族を転ばせてしまったとなると大変なことだ。しかしラノは、逆光から伸びた手に一瞬ノクスの姿を重ねた後、すぐに手を取って立ち上がった。
「楽しかった。装備の違いで負けるなんて、僕もまだまだだなあ」
服についた砂をはたいて整えているその表情は、いつも自分に負けて悔しそうにしている警備隊の同僚たちと変わらない。恥をかかされた恨みや憎しみのようなものは一切感じず、スヴェンはほっとした。
「……守るべき領主様に不十分な装備で勝たれてしまったら、警備隊の立つ瀬がありません」
「それもそうか。イースベルデも安泰だね」
それからというもの、ラノはちょくちょくスヴェンの元を尋ねて彼らの鍛錬に混ざるようになり、おかげで警備隊全体の剣術の質が上がることになる。
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