第86話 伯爵令嬢は惚気を存分に聞いた

 伯爵家に戻ると、ノクスは伯爵に西に渡ることを伝えにいった。ナーナはその間、約束したとおりカティアにガラクシアにいた頃のラノの話をしてやることにした。と言っても、本人の名誉や機密に関わる話ではない。


「ラノ様はニンジンが苦手だったのですよ。貴族学校に行く前に克服しようと頑張っていらっしゃいました」

「まあ、お可愛らしい。これは友人も知らないと思います」


 ナーナは貴族学校に行っておらず、公爵家の跡継ぎという立場上気安く話せる同年代の知り合いが少ない。四つ下のカティアと話しながら、妹がいたらこんな感じだろうかと思っていた。

 その他にもいくつかラノのたわいない話を聞き、使い込んだノートに何やら書き留めていたカティアが、ふとその手を止めてちらりとナーナを見た。


「あの……ナーナリカ様、伺ってもよろしいでしょうか」

「何ですか?」


 カティアは手元をもじもじと動かした後、思い切った表情で訊ねた。


「ナーナリカ様は、ノクス様のどんなところがお好きなのですか?」


 サースロッソ家の娘とガラクシア家の息子という立場上デリケートな話であるとはわかっていたが、カティアは好奇心を抑えられない。コイバナに目を輝かせる期待に満ちた表情に、ナーナは少し考えてから答えた。


「たくさんありますよ。穏やかで優しい性格は、カティアもわかったでしょう。本人は学校に行っていないことを気にしていますが、とても飲み込みが早くて勉強熱心ですし、謙虚ですが魔術の腕は誰にも負けません。いつも私のことを一番に考えて、私が不自由しないようにとても気を遣ってくださるところも素敵です。あの黒い髪と赤い目も、かっこいいと思います。それに、笑顔がとても可愛いんです」


 少しくらい恥じらうことを予想していたカティアは、無表情から淡々と繰り出される惚気話に半笑いで固まっていた。気を取り直して、もう一つ訊ねる。


「では、どうしてノクス様を好きになったのですか?」


 実際に会ったノクスは、ラノよりも著しく劣る呪われた王子だという噂は何だったのかと思うほど、穏やかで聡明な好青年に見えた。カティアはノクスが戦うところを見たことがないが、サースロッソ家から一人娘を任されるほどの信頼を得ていることや、一緒に迷宮に行った父がより好意的な態度を取るようになったところを見ても、優秀なことは間違いない。ラノという理想の王子様の存在を知らなければ、うっかりカティアも惚れてしまうところだった。が、ラノとも親しかったというナーナが、あえてノクスを選んだ理由が気になる。


「どうしてと言われると、少し難しいですね」


 始めはエドウィンから持ちかけられた縁談で全く乗り気ではなかったのに、どうしてここまで入れ込むようになってしまったのだろうか。


「……一目惚れだったのかもしれません」


 結局は、あのギュンとくる笑顔に絆されたのが全ての原因だ。初めて自分に向けられた時のことを思い出し、少しだけ柔らかくなったナーナの表情を見て、カティアは悶えた。


「なんだか、いいですねそういうの……! 私もそんな恋愛がしてみたいです!」


 紅茶を酒場の冒険者のような勢いであおり、興奮しているカティアに、ナーナは少し引いていた。


 伯爵との話が終わったノクスは、間が悪いことにちょうど二人が自分の話をし始めた辺りで通りすがってしまい、


「……」


 出るに出られずどうしようかと思っているうちにナーナの惚気が始まり、思わず蹲って顔を覆った。シシー家の使用人が微笑ましげな顔で通り過ぎていった。


***


 翌日の早朝、伯爵家に見送られてシシーを後にする。


「またシシーに来られた時には、いつでも歓迎します」


 伯爵はナーナではなく、ノクスに握手を求めてそう言った。


「ありがとうございます」


 その後ろでカティアは少し寂しそうにしている。


「もう行ってしまわれるのですね……」


 ナーナとまだ話をしたそうだった。シシーには他に同格の家がないため、気軽にお茶ができる友人が少ないらしい。


「あまりお話できませんでしたから、またいらしてくださいね」

「はい、お世話になりました」


 最後に夫人にも礼を言い、二人はようやくシシーを発った。


 ノクスが西側に渡ることをシシー伯爵に相談すると、迷宮での礼をさせてくれと言って、高速魔導船のチケットを手配してくれた。半日の船旅はチケットの等級によってその快適さが大きく変わるが、渡されたチケットは個室と昼食が付いた最上級のものだった。


 高速魔導船の乗船場は市街地から馬車で四十分ほどの郊外に作られている。辺りには四角く区切られた畑が広がっているが、ガラクシア周辺のものとは違い、川から引かれた水が貯められていた。


「用水路……じゃないよな。どうして畑に水が入ってるんだ?」


 船同様に伯爵が手配してくれた馬車の窓から外を見ていたノクスが、見たことがない農地の姿を不思議そうに眺める。


「あれはお米を作る準備ですよ」


 ナーナが答えた。炊飯器の件以来時々サースロッソ家の食卓に上がるようになった米は水を張った畑に苗を植えるのだと聞いて、ノクスは驚いた。


「この景色はこの時期にしか見られないので、良い時に来ましたね」


 風が穏やかな晴れた日には空の色が水面に鏡のように映り、美しい姿を見せる。水が入った後はすぐに田植えが始まってしまうので、葉が伸びて水面を隠すまでのごく短い期間しか見られない風景だった。


「おすすめは夕焼けの頃なのですが」

「いや、じゅうぶん綺麗だよ」


 ナーナと一緒に旅をすると様々なところに目が行くので、その度に新鮮な気持ちになる。


「一人だったら、景色なんか気にしなかったと思う」


 窓枠に頬杖を突き遠くを見るノクスの楽しそうな表情を、ナーナは乗船場に着くまで、飽きもせず満足げに眺めていた。

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