第85話 二人は西に向かうことにした
護衛の男性は余計な話を一切せず、必要なことにだけ適切に答え、ナーナをまっすぐに宝飾店まで送ってくれた。決して彼に否はない。むしろ誠実でとても良い仕事をしている。しかし、よく知らない町を歩くのはこんなに心細くつまらなかっただろうかと奇妙な感覚に囚われ、ナーナは無意識に早足になっていた。
「あ……」
宝飾店に着いたところで、ナーナはあることに気付いた。ノクスと一緒に帽子を探していた時に見た髪留めが、ショーウィンドウから消えていたのだ。普段使いに向くデザインと価格ではなく買うつもりはなかったが、売れてしまったとわかるとやはり買っておけばよかったと少しだけ後悔してしまうのだから不思議だ。
店内に入るとカウンターに見慣れた後ろ姿があり、ナーナはようやく安心した。
「いらっしゃいませ」
「あれ、ナーナ?」
カランカランというドアベルの音に振り返ったノクスが、護衛を連れたナーナの姿を見て驚いていた。
「では、私は失礼いたします」
「はい。ありがとうございました」
護衛の男性はナーナとノクスに丁寧に一礼して、カウンターの向こうにいる店主にも頭を下げると、静かに立ち去った。
「カティアから、ノクス様がこちらに向かったと聞いたもので」
「なるほど。声を掛けようかと思ったんだけど、ナーナいつも、俺よりも早く起きるようにしてるだろ。寝られるときは寝ておいたほうがいいからさ」
毎日快適なベッドにありつけるとは限らないというのは冒険者ならではの感覚なのだが、ナーナはノクスらしい気遣いだと微笑ましく思った。
ちなみにナーナがノクスよりも早く起きるのは別に気を遣っているわけではなく、ノクスに寝起きの腑抜けた顔を見られたくないだけだ。ついでに、ノクスが起きるまで寝顔をじっくり見られるのも楽しい。
「もうすぐ話が終わるから、少し待ってて」
「はい」
そして、カウンターの上でトレーに載せられた金のロケットを見つけた。モノクルを付けた店主が、ノクスが頷いたのを見て口を開く。
「この意匠は、川向こうによく見られるものです。かなり繊細で上品な彫刻が施されていますし、写真の女性も、少し古いデザインですが上等なドレスを着ていますから、それなりのお家柄の方が特注で作らせたものではないかと」
「なるほど……」
丁寧に鑑定をしてくれた店主に礼を言って店を出たところで、ノクスが考え込んでいるのを見てナーナは訊ねた。
「西に向かうのですか?」
ソピア川を越えると、ウェストール公爵家が治める西側の領地になる。ナーナは幼い頃に対岸の町に一度だけ行ったことがある程度で、土地勘はない。
「……いや。いい加減サースロッソに帰らないと、アルニリカ様が心配すると思う」
本来は往復で二週間程度の予定だったが、資料探しに加えて迷宮探検までしたものだから、既に少し遅れている。せめて雨期が始まる前にサースロッソに帰るべきだとは思ったものの、ノクスはロケットの持ち主――土属性のウィスプという珍しい存在になった魔術師に興味を持っていた。ナーナのことがなければ、ホイホイ西に渡っているところだ。
「また別の機会に行くという手もありますが……。雨期が来ると川が増水して荒れますから、渡るなら今のうちですね」
「……できれば行きたい」
今行かなければしばらく行けないとなると、尚更行きたくなる。ナーナはわかっていたとばかりに頷いた。
「では、家には帰るのが遅くなると手紙を送っておきましょう」
「いいの?」
そろそろ家に帰りたいのではとノクスはナーナを案じたが、
「私をサースロッソに送った後に一人で向かわれるよりは」
「うっ」
考えを見抜かれていた。
「大丈夫です。船が日に一本出ているはずですから、川を渡ること自体は半日ほどでできますよ」
ソピア川には、術具研大型術具塔が誇る高速魔導船が航行していた。
「そんなに? じゃあサースロッソとシシーを行き来するのも、もしかして船のほうが早い?」
「いえ、高速魔導船はまだソピア川にしか導入されていないのです。漁船や貨物船のスピードでは、多少早く着くかもという程度ではないでしょうか。陸地よりも天候に左右されますから、出航できない日もありますし」
サースロッソとシシーを隔てる山は、海に大きくせり出している。しかも水の下には浅い岩場が広がっており船が大きく迂回する必要がある上、シシー側は気流が複雑で荒れやすいため、二週間に一度の貨物船以外は海からの行き来はほとんどないということだった。
「それに」
ナーナはぽろりと零してからしまったと一旦口を噤んだが、ノクスが首を傾げたので、結局言葉を続けた。
「……船の揺れはあまり得意ではなくて」
ナーナはサースロッソ家を継ぐ者として地域産業を知るために漁船に乗せられたことがあり、見事に船酔いした経験があった。アルニリカは漁船の揺れについて「馬車よりマシ」と言っているが、すぐに下りられる分馬車のほうがマシだとナーナは思っていた。
「なら仕方ないな……。高速船も乗りたくないんじゃない?」
「高速船は大きいですし、海よりは揺れないので大丈夫です」
ナーナが西側に渡ったのは、高速魔導船の就航式典が行われた時だ。ソピア川を渡る魔導船は、ケヴィンがサースロッソ家を継いでから着手した中でも有数の、大がかりな事業だった。ウェストールは隣国との境に複数の鉱山を持っているため、術具の素材の仕入れ先として交流するために必要だったのだ。
「じゃあ、高速船で西側に渡って、できる限り早く帰ってこよう」
写真の女性を探し当てられなくても、ロケットの持ち主に関する情報が少しでも手に入ればいい。
「わかりました」
シシーの屋敷で待てと言われなかったことにナーナはほっとしたが、後日手紙を読んだアルニリカが大きなため息をついたことは言うまでもない。
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