第84話 伯爵令嬢はもどかしくなった
グレアムたちと別れたノクスとナーナがシシーの屋敷に戻った頃には、日が暮れていた。先にシャワーを浴びて着替えを終えていた伯爵から改めて深々と礼を言われ、ナーナ、ノクスの順でシャワーを借りる。ようやくさっぱりしたところでノクスがサロンへ向かうと、一緒に食堂に行くためにノクスを待っているはずのナーナがいなかった。
まだ部屋にいるのだろうかと、ナーナが滞在している客室に向かうと、水差しとコップを手ずから運んでいるカティアと出くわした。
「ノクス様、おかえりなさい。父を守ってくださって、ありがとうございました」
声のボリュームを落として言うカティアにノクスが首を傾げると、彼女はちょいちょいとナーナの部屋のドアを指さした。ドアを少しだけ開けて中を覗くと、一人掛けソファーの背もたれ越しにナーナの赤い髪が見えた。が、その頭がこっくりこっくりと揺れていた。
「寝てるのか」
「はい。起こすのも悪いと思って……。お疲れのようでしたし、起きた時にお水が欲しいのではないかと」
「そうだな。ありがとう」
ノクスはそろりと部屋に入った。ナーナは髪を乾かして梳いているところだったようで、手には櫛を持ったままだった。近づいても目を覚ます気配はない。今まで大人数とこんなに長時間一緒に過ごしたことはなかったので、気疲れしたのだろう。
「ベッドに運ぼう。迷宮の床は硬かったから」
触れたらさすがに起きるかとも思ったが全く起きないので、せっかくならきちんと横になって眠ったほうがいいと、ノクスはそっとナーナを抱きかかえた。サイドチェストに水差しを置いたカティアが速やかに掛け布団をめくったところに、慎重に寝かせる。
布団を肩まで掛けてやったところで、ノクスはナーナの綺麗な寝顔をまじまじと見た。いつもノクスが先に寝てしまい、ナーナのほうが起きるのが早いので、彼女の寝顔を見る機会がほとんどなかったことに今更気付く。
「ノクス様は、本当にナーナリカ様を愛していらっしゃるのですね」
優しげに細められた目を見て、カティアはしみじみと言った。
「……うん」
ノクスは素直に頷いた。照れ顔を期待したカティアだったが、予想とは裏腹にノクスは少し寂しそうに微笑んだだけだった。
「いつか、本人にもきちんと言えたらいいんだけど」
「言っていないのですか?」
「呪いを解くまでは、言えないかな」
ナーナ本人はノクスの呪いが解けようが解けまいが添い遂げるつもりでいるが、ノクスはまだ、彼女の人生を自分の都合に巻き込むことをためらっている。とっくに手放す気などなくなっているにもかかわらず、口に出さなければナーナを縛らずにいられるのではないかと、最後の砦のように頑なに伝えていなかった。
部屋を出て、音を立てないように丁寧にドアを閉めて立ち去るノクスの後ろ姿を追いながら、カティアは一人でもどかしい気持ちになっていた。が、恋愛小説が好きな彼女は他人の事情に口を挟むほど無粋でもなかった。
***
ナーナが目を覚ました時にはカーテンから朝日が差していた。シャワーを浴びた後からの記憶がなく、いつもより空腹なことと、ソファーに櫛が置きっぱなしになっていることに気付いて、うっかり寝てしまったのだとわかった。しかし、
「……誰が運んでくださったのでしょう」
知らぬ間にベッドに移動していて、水差しまで置いてあったということは、誰かが自分を移動させてくれたに違いない。
「カティア……だけでは、私を運べないでしょうし」
夕食に来ない自分を誰かが呼びに来たのだろう。しかし伯爵は、主君の娘であるナーナの寝床を断りなく覗くことは絶対にない。部屋の中まで入ってきて様子を確認するのであれば同性のカティアが来た可能性が高いが、小柄なカティアがナーナを起こさずに運べるとは思えなかった。となると、
「……ノクス様?」
一緒に様子を見にきたノクスが抱えて運んだと考えるのが妥当だ。そういえば、ノクスとカティアの話し声がぼんやりと耳に残っている気もする。
「……」
無防備な姿をさらしてしまった事実がなんとなく恥ずかしくなり、とりあえず一杯水をあおってから、着替えることにした。
ノクスを探して階下に向かったところで、なかなか起きてこないナーナのもとへ食事を運ぼうとしていたカティアに出会った。
「え? ノクス様は、もう出掛けられたのですか?」
サロンで少し遅い朝食を食べながらノクスの行方を聞くと、三十分ほど前に出掛けたという。
「はい。小さな金細工を持って父と話しておられましたが、その後すぐに」
金細工ということは、例のウィスプが落としたロケットだ。持ち主の手がかりを探しているのだろうと、すぐに予想はついた。
「ということは、行き先は冒険者組合でしょうか」
「いえ、宝飾店の開店時間を聞かれましたので、そちらに鑑定をお願いするのだと思います」
迷宮の魔物が落としたとなれば、冒険者組合では回収されて研究に回されてしまうかもしれない。ノクスらしい判断だった。
「では、そちらに行ってみます。ありがとうございます」
「お一人で外に出られるのでしたら、護衛を連れていってください! ノクス様と会えたら戻るように言いましょう」
「助かります。戻ったら、ガラクシアのお屋敷で見たラノ様のとっておきの姿を教えますね」
「! ありがとうございます!」
ぱあっと顔を輝かせたカティアを残し、ナーナは久しぶりにノクス以外の誰かと外出した。
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