第61話 二人は次の行き先を決めた

「お帰りなさい。お早いお戻りで何よりです」


 ノクスがサースロッソの屋敷に戻ると、ナーナにためらいもなくギュッと抱きしめられた。使用人たちは各自視線を逸らしたり、仕事の途中に通りかかっただけのふりをしている。

 人目があると尚更気恥ずかしいが、せっかく帰還を歓迎してくれたのだ。魔物会議の後は固まってしまって何もできなかったが、これくらいなら許されるだろうと、ノクスは一瞬迷った後、思い切って抱きしめ返した。


「ただいま、ナーナ」


 すると、しっかりとノクスをホールドしていたナーナの腕が緩んだ。


「ナーナ?」


 反応を間違えたか、抱きしめるのはさすがに早かったかと慌てて腕を解き、ナーナの顔を見る。と、黒曜石色の大きな目が見開かれていた。ナーナがこんなに驚いている顔は、一年に一度くらいしか見られない。


「ごめん、息苦しかった?」

「……いえ。まさか返していただけるとは思っていなかったので」


 それから、スッと目を逸らした。ノクスは二ヶ月の旅とサースロッソでの生活で学んだ。これはナーナの「照れ」だ。更に、


「お疲れでしょう。お茶の用意をして参ります。すぐに食事も作らせますので、サロンでお待ちになってください」


一瞬だけ目を泳がせた後、踵を返して早足で厨房へ向かった。


「……正解?」


残されたノクスが誰に言うともなくぽつりと訊ねると、使用人たちは各々に深く頷いた。


***


 きびきびと、食事と風呂を済ませたら仮眠を取るであろうノクスに合ったリラックス効果のあるハーブティーを選び、ポットの湯の温度を測るナーナの姿は、傍目には普段と何ら変わらない冷静沈着なサースロッソの一人娘だった。


 が、その心中は大荒れだった。


 酒に酔った時もそうだったが、耳元で囁かれるのは破壊力が高い。疲れているのか少し掠れていたが、それがまた艶っぽくて良くない。いやとても良い。


「良い匂いのお茶だね。色も綺麗だ」

「はい。ゼーピアの商人から仕入れた、南でよく飲まれているお茶です」


 平然としているノクスに、またしても心配が募った。サースロッソにはノクスが気を張るような相手が少ない分、ガラクシアにいた頃のような警戒心が薄く、基本的に誰にでも優しくする。実際術具研でも、複数の女性職員が何かにつけて口実を作り話しかける姿が確認されている。

 ノクスはナーナと恋人関係にあるとアイギアが触れ回ってもそんな調子なのだ。今はまだ、若くて強い魔術師に対する憧れ程度かもしれないが、今後もそういう者ばかりとは限らない。


「やっぱり、ナーナが淹れてくれたお茶が一番落ち着くよ」


 茶を淹れた人間が何を考えているかなどつゆ知らず、ノクスは微笑みながら嬉しいことを言う。


「……ありがとうございます」


 結局、心配も不安も見えない敵への嫉妬も、『ギュン』が全て吹き飛ばした。




 一方のノクスのほうも、決して平常心だったわけではない。滅多に感情を顔に出さないナーナの貴重な照れ、もといデレも、しっかりと感じられた温かく柔らかい感触も、殺伐とした依頼とケイとの遭遇でささくれた心によく浸みた。

 こんなに可愛らしい人を自分なんかが恋人だ婚約者だなどと言うのはおこがましいのではないだろうか。

 いやしかし、別の男とナーナが婚約するのは絶対に嫌だ。第二王子などもってのほか。ギリギリ許せるとしてラノ。――いや、ラノにもナーナばかりは渡したくない。


「ノクス様? どうなさいましたか」


 和らいでいた表情が急に真剣になったのを見て、ナーナが首を傾げる。


「……いや。今回の任務が、魔物の会議にいたケイっていう男の差し金だったんだ」

「え……」

「それで、呪いの手がかりだって言って、これをくれた」


 魔術収納から紙片を取り出す。記されていたのは、男性の名前と住所。その名字に覚えがあったナーナは、少しだけ眉根を寄せた。


「ここに行ってみようと思う」


 現状最も有力な情報である以上、ケイの手のひらで転がされようが、今は飛び込んでみるしかなかった。

 すると、ナーナは小さく口を開けて何か言おうとした後一度閉じ、ノクスを真っ直ぐに見てから、今度ははっきりと言った。


「私も行きます」

「え」

「その名前、シシーの小領主の家ですね。あの地域はサースロッソの配下ですから、公爵家には逆らえません。私が行けば、屋敷にも入れてもらえるはずです」


 確かに、ノクス一人で行っても怪しまれるだけだ。同じ呪いが発現した人間がいたとなれば、黒い髪と赤い目を見ただけで拒否されるかもしれない。忍び込むこともできるが、どこに何があるかもわからない家で三十年前に生きていた人間の痕跡を探すより、家主の協力を仰ぐほうが確実だ。


「大丈夫です。ノクス様がいない間に、アイギアに防御魔術を見てもらいました。お役には立たないかもしれませんが、自分の身はできる限り自分で守ります」


 そう言うと、ナーナはサースロッソに着く前からずっと練習していた防御魔術を展開してみせた。一瞬赤く光った後、無色透明になった障壁の出力は安定していて、しっかりと主を守っている。


「アイギアにお礼を言わないとなあ……」


 術具に魅了された変わり者とは言え、アイギアも宮廷魔術師に匹敵する魔術師であり、術具研という魔術を扱う組織の頂点に立つ男だ。ノクスとは違い、一般的な人間が使う魔術の教養と基礎を持っていて、魔力を見ることでアドバイスもできる。特別な力を持っていないナーナが教えを請うには最適な師だった。


「わかった。ケヴィン様とアルニリカ様が許可してくれるなら、一緒に行ってくれると助かる」

「はい。ダメと言われても説得してみせます」


 やると言ったらやってのけるのが、ナーナだった。

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