第59話 一方その頃弟は書類と戦っていた

 ノクスがガラクシアとサースロッソの境目を走り回っている頃、ラノはイースベルデで書類の山と格闘していた。


「街道を作るには予算を確保しないといけないけど、まずはお金の流れを把握しなくちゃ」


 数ヶ月前まで通っていた貴族学校では、人の上に立つための幅広い学問を学び、中には経済学の授業もあった。成績優秀だったラノはもちろんきちんと履修し理解していたが、実践となると何もかも勝手が違う。特に帳簿など、動く金額の桁が違う上、知らない科目がたくさんあり、書類を作った人間のクセまで乗ってくるのだ。

 イースベルデの財政を担当している部署から人を借り、細々と質問をしながら理解を深めていくことにした。


「ラノ様、少し休まれては」


 交代制の『本日のラノ様担当』を決めるキャットファイトを制したメイドが、綺麗な顔の眉間に皺を寄せているラノの身を案じた。


「ありがとう、でも大丈夫だよ。領主になるんだから、これくらいわかるようになっておかないと」


 ラノは口調こそ優しいものの、メイドのほうに見向きもしなかった。邪魔をしないよう静かに執務室を出て扉を閉めたメイドは、


「……相変わらず、全然意識すらされてない。ガラクシアに残って、適当なところで適当な家に嫁いだほうが良かったかも」


ライバルが減った環境で次期公爵と楽しくスローライフが送れると思っていたのに、ガラクシアにいた頃よりも触れ合いが少なくなったことに、大きくため息をついた。



 広大な農地が広がるイースベルデは、ガラクシアの一部と言ってもサースロッソと変わらないくらいの面積がある。エドウィンはいくつかのエリアに分け、小領主という役職を与えた人間を置いて管理させていた。彼らをまとめてイースベルデ全体を治めるのが、今回課せられたラノの役目だった。

 つまり、街道作りのために金の流れや書類の内容を理解する勉強を続けながらも、街や農業組合などに視察にも行かなければならない。


「ノクスの治癒魔術が恋しいなあ」


 夜遅くに帰宅し、唯一気を抜ける自室でベッドにボスッと倒れ込むと、いつも兄のことを思い出す。

 ノクスはラノが遠出から帰ってきた後や疲れている時などに、何も言わずに治癒魔術を掛けてくれることがあった。背中をさするとか、手を掴んで起き上がらせるとか、何気ない動作と共に素っ気なく掛けられるその魔術は、一瞬でラノの疲れを吹き飛ばす。

 エドウィンの取り乱しようを見て、改めて魔術について少しだけ学んだところによると、そもそも治癒魔術を使える人間は多くない上、詠唱せずに一瞬で回復させるなどもってのほか。もはや伝説の域らしい。


「もしまた会うことがあったら、この肩の傷も綺麗に治してくれないかな」


 迷宮で負った肩の傷は随分良くなったが、時々ふとした拍子に痛む。せっかくなら綺麗に治してくれれば良かったのにとか、そんなことを言うつもりはない。もし怪我をした直後に跡形もなく治ったら、不審がられていただろう。魔術が使えることを隠していた兄が、弟にできる最大限の治療だったことも理解していた。


 そして、


「……ノクスとナーナが婚約するって話は、どうなったんだろう。あれからしばらく経つのに、サースロッソ家も父様も、何も公表しないな……」


 ナーナがエドウィンと対峙するまで全く知らなかった、サースロッソ家との契約の話。その後ナーナはノクスと共に屋敷から消えた。となれば、義理堅い兄のことだ、サースロッソにナーナを送り届けることだろう。多少寄り道をしたとしても、さすがにもう着いているはず。

 公爵家に何かあればすぐにニュースになるだろうと思い、毎日南方面の情報をチェックしているが、伝わってくるのは術具研究所が次々と新しい術具を発表し、業績が好調だという話くらいだった。


「……ナーナ……」


 年頃のメイドの中で唯一、ラノに興味を示さない赤い髪の少女。自分が不在の時もノクスを気に掛けてくれることをラノはとてもありがたいと思っていたが、抱えていた気持ちはそれだけではなかった。


「……好きになったのは、僕のほうが早かったのになあ」


 二人を見ていれば、お互いを想い合っていることはわかる。ならば応援するのが、自分にできる唯一の兄孝行だ。――たとえ、自分も彼女を好いていたとしても。


「顔が似てるからって、女性の好みまで似なくてもいいのに」


 ラノは少しだけ血の繋がりに呆れながら、その日は眠りに落ちた。


***


 翌日、引き続き書類と睨み合っていたラノは、


「あれ?」


不意に声を上げた。前年度の帳簿を引っ張り出し、見比べる。


「どうされましたか?」


 財政課から派遣されている説明係が、何か粗相をしただろうかとビクつく。


「ここ、金額がおかしくない?」

「え?」


 それはとある小領主から申告された、納税額に関する帳簿だった。


「ここと、ここを足したのが、ここと一緒にならないといけないんじゃなかった?」


 綺麗な顔に似合わない節立った剣士の指で、数字を示す。説明係はそろりと遠巻きに覗き込んで確認し、


「……そうですね。記入ミスでしょうか」

「ううん。ずっとなんだ。前年度も、その前も」


 大量の書類が積まれた中から、的確に対応する帳簿を引き抜くラノ。見終わった帳簿をどこに置いたのか、そして帳簿の中の細かい数字まで覚えているのかと、説明係とメイドが驚いている間もなく、


「……誤差が、結構な金額になりそうだけど」

「……確認いたします」


 赴任してひと月で小領主の脱税を暴いた有能な新領主として、名を馳せることになる。


「回収できた分って、街道事業に使えるかな?」


 本人は何をしたのか、あまりわかっていなかった。

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