第58話 魔術師は山を駆けた

 ナーナは、ノクスがアストラとして活動している時の、気ままでマイペースな振る舞いも好きだ。むしろそちらがノクスの素で、自分の前ではまだ猫を被っているのではないかと思っていた。


「……お気を付けて」

「うん、なるべく早く帰ってくるから」


 故にノクスがサースロッソを離れる際に不機嫌だったのは、魔物会議の時のように心配しているからではなく、単純に一緒にいられる時間が減ることと、アストラとしての顔を見られないせいだった。


***


 ナーナの繊細で複雑な心情を知る由もなく、ノクスはサースロッソ領とセントアコール領を隔てる山を、依頼で指定されたポイントに向けてほぼ直線に突っ切っていた。


「そろそろか」


 太陽の位置と地形から現在地を把握し、大型の魔物が目撃されたという地点へ近づく。

 案の定、周辺には樹皮を剥がした歯の跡や大きな足跡が残されていた。


「報告通りのベアー種。このサイズは、ブラックベアーかな……」


 熊型の魔物が縄張りを主張する印を確認し、依頼内容と照らし合わせる。


「『ベアー種は雑食で動物の熊よりも攻撃性が高い。浄化しても肉体が残る魔獣タイプ』」


 本で読んだ内容を思い出して呟くのは、依頼遂行中のクセだった。独り言が増えるのは良くないと思いつつも、考えを整理するためには悪くないので、先に防音魔術を張っておくこともある。


 どうして魔獣は動物と同じ特性を持つのだろうと常々不思議に思っていたノクスだったが、新しい知見を得た今なら納得する。エルフや吸血鬼が特殊な魔力を持った人間として分類できるなら、ベアー種も魔力を持っているだけで熊には違いないのだ。


「でも、かなりでかいな」


 足跡のサイズを指で測り、本体の大きさを想定する。ただの熊の一種と思えばまだ何の悪さもしていないのに駆除するのは早計にも思えるが、ドットスパイダーがそうだったように、大型の魔獣は放っておくと周辺の生態系に影響を及ぼしながら力を蓄え、人里に降りてきた頃には簡単に対処できないほどの脅威になる。

 現に、縄張りに入ると動物や他の魔物の気配が消え去り、小鳥の鳴き声すら聞こえないほどに静まり返っていた。それらが逃げたか食われたかはわからないが、少なくとも既にこの近辺で一番力のある魔獣になっているという証拠だ。


「……」


 夏に向けて緑が深まる木々がざわめく中、ノクスはなるべく音を立てないようにしながら、より新しい痕跡を探して山の奥へ進んでいく。妙な変異を起こしていなければ、日が傾き始めた今頃から活動が活発になるはずだった。


 木々を掻き分けながら十分ほど進んだ頃だろうか。


「いた」


 遠くからでもわかる黒い巨大なシルエットが、川べりで水を飲んでいた。周辺の樹木と対比するに、四つ足で歩いていてもノクスより頭の位置が高い。

 魔王の力を使えば足止めでも何でもできるだろうが、黒い魔力と関係があるなら無闇に使わないほうがいい。気配を消し、どう仕掛けるべきかと様子を窺った。


 本来は複数人で連携を取って討伐するような魔物をソロで討伐するために、ノクスは常に一撃必殺を信条にしていた。もちろん膨大な魔力が生み出す火力あっての荒技ではあるが、それでも魔術が発動するよりも先に気付かれて距離を詰められれば、やられるのはこちらだ。化け物呼ばわりされる赤五つの魔術師は、ジェニーに授けられた知識と、仲間を頼らない、頼れない環境が生み出したと言っても過言ではなかった。


 姿を隠す隠密の魔術を使い、ブラックベアーの背後から静かに忍び寄る。と、足元の枝をわざと踏んで音を立て、手元で風魔術を螺旋状に尖らせながら振り向きざまの巨体に向かって急速に踏み込み、顎の下に風の槍を叩き込んだ。


 喉から脳天を撃ち抜かれ、巨大な熊は悲鳴も上げずに倒れ伏す。


「よし」


 どす黒い返り血を防御魔術で防ぎながら動かなくなった巨体を確認し、ノクスは首を傾げた。


「……意外とあっさりだったな。これ、俺じゃなくてもよかったんじゃないの?」


 こんな山奥にいるのなら、人を襲ったわけでもない。繁殖しているわけでも、変異しているわけでもない。それこそ、連携の取れた赤一つくらいのパーティーで殴り込めばあっさり沈められたのではないだろうか。


 なんとなく依頼の難易度に違和感を覚えながらも、魔術収納にブラックベアーの亡骸を仕舞う。何でもなかったように次の依頼のポイントに向かう黒いローブ姿を、十分に離れた安全な位置から望遠鏡でじっと観察している人影があった。


***


 次のポイントは、熊のポイントから東にしばらく進んだ場所だった。この辺りになると、セントアコールよりもガラクシアのほうが近い。


「……ラノは元気にしてるかなあ」


 山を越えればガラクシアか、と頂を見上げながら、思わず呟いた。ガラクシア中央からイースベルデに向かう道は、大幅なアップダウンこそないが道が悪く、それなりに険しい。大荷物と従者を連れて馬車の速度で移動するのはさぞ大変だったろうと、木々や岩場を器用に飛び越えながら弟の身を案じるノクスだった。

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