第10話 弟とクソジジイは少しだけ和解した
ノクスが出て行った執務室は、重苦しい空気に包まれていた。
「……父様」
父上と呼べと、何度訂正されても治らないラノが、震える声で恐る恐る口を開く。
「……はあ」
エドウィンはため息をつくと、椅子の背もたれに身体を預けた。それまで纏っていた威厳はどこかへ消え去り、そこにはただの、寂しそうな顔をした四十そこそこの男がいるだけだった。
「良く思われていないことは知っていたが、『さっさとくたばれ』か」
初めてノクスが向けてきた激情に一言も言い返せず、思っているよりもショックを受けている自分に気付き、フン、と自嘲気味に鼻を鳴らすエドウィン。
子どもは無条件に親を慕ってくれるものだと、思い込んでいたのかもしれない。
「父様……。どうして、僕とノクスを同じように扱ってくれなかったのですか」
ラノは度々、エドウィンに進言していた。子どもの拙い言葉ではあったが、ノクスを自分と同じように扱い、一緒に貴族学校に通わせてくれとも。
「人前に出せば、もっと批難の目にさらされて傷つくと思っていたんだ」
忌み子の噂が社交界中に広まっている中で、ラノと並べれば尚のこと、その異質さが浮き出て見える。何か凶事があるごとにノクスのせいにされるのは、わかりきっていた。
「じゃあ、どうしてノクスの話を聞こうとしなかったんですか。……僕の話だって」
兄は、確かに助けを求めていた。その手を先に振り払ったのは父だった。
縋るような目はやがて無関心に変わり、ここ数年は騎士が卑しい罪人に向けるような、嫌悪と侮蔑の感情すら混ざっていた。
「時間が足りなかったんだ」
エドウィンは忙しすぎた。王国随一の剣の使い手として、騎士たちに剣を教え、強力な魔物が出たと聞けば指揮を執るために国中を飛び回る。
王族の立場というのは、盤石に見えて危うい。綺麗事ばかりではなく、非人道的なこともたくさんしてきた。
ノクスの赤い目が、まるで今までの罪を全て見透かしてくるようで、恐ろしかった。
「……今となっては、全て言い訳だが」
忙しさを口実に、息子たちから逃げていたと言ってもいい。
「思えば、教育係もいないのに貴族の立ち振る舞いや言葉遣いを知っていたり、妙なことは多かった」
王弟と対峙しても一切怯まず、堂々と背筋を伸ばして意見を述べる姿は、まさに高貴と呼ぶに相応しい風格があった。
ラノが持つような、周囲の者が思わず支えたくなる魅力も重要だが、ノクスが先ほど見せた、有無を言わさず従わせる力こそ、天性のものだ。身につけようと思って身につけられるものではない。――王の器とでも言うべきか。
だが、それを発現させたのはエドウィンではない。
どれだけ息子に興味を持っていなかったのだ。エドウィンの心に、自責の念が積もっていく。
亡き妻に託された、大事な家族だったはずなのに。
「教えたのは誰だ?」
「僕も詳しくは……。文字なんかは僕が教えたり、授業を盗み聞きしていたりしたことはありましたが、マナーの授業は嫌いだったみたいなので……」
それから、ちらりと上目遣いで父の顔を見るラノ。
「さっきの粗暴な喋り方と罵倒の語彙量のほうには、たくさん心当たりがあります」
ラノの精一杯の嫌味だった。
「……」
使用人たちが隠れてノクスにどんな仕打ちをしていたのかはこれからしっかりと問い正すとして、ならば彼にあの高貴な振る舞いを教えたのは誰なのだろうか。
「屋敷の中でノクスと仲が良かったのは、ナーナと、料理長のパスカルくらいです。多分今、二人に最後の挨拶をしてるんじゃないでしょうか」
***
ノクスはラノの予想通り、厨房にいた。
「そうか、とうとう出て行くのか」
「うん。俺にとっては、パスカルが父親みたいなもんだよ。今までありがとう」
腕を組んで眉をひそめているパスカルの横で、ノクスは壁に寄りかかり、おやつに貰ったパンの耳に砂糖をまぶしたまかないラスクを美味しそうにカリカリしていた。
パスカルは、栄養失調になりかけのノクスを救ってくれた恩人だ。彼がいなければ、ノクスは精神的にも肉体的にも死んでいた。雑談がてら、一般教養や常識を教えてくれたのもパスカルだ。
「冒険者になるつもりだから、何か困ったことがあったら言って。冒険者組合で、『魔術師のアストラ』って言えば、俺の所に連絡が来ると思う」
「ふーん、わかった。一応覚えておいてやろう」
「ガラクシア公爵には絶対に教えないでくれ。ラノにも」
「……わかった」
実の父を「父さん」とすら呼ばなくなったノクスに複雑な顔をしながらも、パスカルは承諾した。
「あとはナーナに挨拶したいんだけど、どこに行ったか知らない?」
「さっき、ティーセットを持ってどこかに行ったぞ。てっきりお前のところに言ったんだと思ってたのに」
「……ティーセット?」
ラノのところにでも行ったのだろうかと、暢気に首を傾げるノクス。
食事時でもないのに厨房にやってきて、妙にすっきりした顔をしているノクスを、他の使用人たちが怪訝そうに見ていた。
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