第17話 保険という名の罠

「――さぁ、年末調整の時間だ。お前ら書類を出せ」


 残暑がいつの間にか秋冷に変わり、激しい寒暖差で社畜も某熱帯魚も死にそうになる季節。それは年度末に向けた諸々の手続きが始まる季節でもあった。


 澤山は右手に自身の申告書を掲げながら、部下3人の顔を見る。彼らの反応は、まさに三者三様。澤山の言葉に、「もう少しなんで!」と叫びながら必死に記入している土師、無言でぺらりと紙をつまみ上げる安保、そして20枚近い封筒を机に広げて頭を抱える馬路。


 部下たちを一瞥した澤山はこめかみを押さえ、この後に起きる事を想像しないようにしながら、一人ずつ順番に声をかけていくことにした。


「はい安保。書類揃ってるか」

「澤山サン、楽なほうから進めていくタイプなんすね。ショートケーキのイチゴは最初に食べる派っすか?」

「やかましい、早く出しなさい」

「ほーい」

 澤山は安保から手渡された書類に素早く目を通す。丁寧な字で記入されたそれに不備はなさそうで、澤山は頷きながらクリアファイルに仕舞った。


「よし、OKだ。保険には入ってないんだよな?」

「入る必要あります? 健診オールSの私が」

「あぁ……研究対象」


 言い方ー、と安保は拗ねたように口を尖らせる。そんな彼女を華麗にスルーした澤山が次に声をかけたのは、隣のデスクに座っている土師だった。

「さて……書けたか?」

「書けました…書けたんですけど……あれ、医療費控除って年末調整でしたっけ…? 保険料控除は年末調整ですよね?! ぅう…合ってますか…?」

「保険料控除は年末調整で合ってる、医療費控除は確定申告だ。 ――今年も医療費控除が受けられてしまうのか、お前は……」

「はい…余裕で……」

 医療費控除とは、年間で10万円以上の医療費を支払った際に受けられる控除のことだ。つまり、土師のドジ体質による医療費は……お察しの通りである。


 心なしか萎びた様子の土師が、両手で掲げるように書類を提出する。保険控除の申請がある分丁寧に確認するが、こちらも問題はなさそうだった。


「病院からもらった領収書はきちんと保管してあるな? 無くしそうなら、会社に置いておけよ」

「うう、ありがとうございます……破れたり捨てたり焼けたりしないように、金庫に入れてるから多分平気です…」

「焼け……?」


 物騒な単語が聞こえたが、気のせいだろう、そうに違いないそうであってくれ。澤山は全力で自分をごまかしながら、土師のデスクから離れた。なにせ、一番の難題がまだ残っているのだ。


「馬路……」

「すいませんすいませんいかようにも𠮟責は受けますのでもう少しお時間を…いやむしろ私は自分で確定申告なり何なりしますのでどうか気になさらず先に提出を」

「流石にこの惨状を放っておくほど鬼ではないぞ、俺は」

 澤山は軽くため息をつきつつ、馬路のデスクに散らばる封筒に手を伸ばした。いずれにも「○○保険」や「▲▲生命」と書かれているため、保険控除の申請関連だろうとアタリをつける。


「で、何をそんなに悩んでるんだ。数はすごいが、書類は揃ってるんだろ?」

「ええ、確かに揃ってるんですが、その、……払った額と書類の額が、一致しないものがいくつかあり…」

「……ん?」

 馬路の発言に、澤山は眉間のしわを深くする。その様子を見て、馬路は慌てて言葉を重ねた。


「いえ、あの、先日から問い合わせしてるのですが、窓口ともつながらず…」

「なんて名前の保険会社だ?」

「○×保険と、◎▲生命と、◇◇保険です」

「――安保、」

「もう調べてますよー。そんで、そんな会社は存在してませんねぇ。まあ、詐欺かと」


 いつの間にかキーボードを叩いていた安保が、間髪入れずに答える。あまりに平坦なトーンで発された「詐欺」という言葉に、土師と馬路がぎょっとした顔で叫ぶ。

「詐欺?! そんなことあるんですか!?」

「そんな…!! 将来に備えていたはずが裏目に出たなんて…」

 ――いや備えすぎだろ、お前は一体将来どんな目に合う予定なんだ。という言葉を飲み込み、澤山は遠い目をする。


「で、馬路サンどうするんスか、とりあえずこういう時の窓口調べたんですけど、いります?」

「ああああいりますが、その前にどの会社が詐欺の疑いがあってどれが正規のところなのかもう一度確認して、いや、というかこんな事になってしまった私は社会人失格ですよね皆さんにご迷惑をおかけして申し訳ないどのように責任を取れば――」

「お、落ち着いてください!! 馬路さん被害者ですよ?!悪くない!!」

「わおパニック。ヤバ」


 突然の事態に慌てふためく部下たち(1名余裕そうだが)を横目に、澤山は経理課へと内線をかけた。


「すいません、澤山です。……年末調整の書類提出、少し待ってください」

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