29 もっとも危険な賭け

「……広田ひろたなる男と、幣原しではらとやら、今日は動くつもりであったのだろうか」

 気まずさに耐えられなくなったか、江平えびらがこぼした。

「さあな」

 一馬かずまはタブレットから上体を起こすと、投げやりに返事して、座ったまま大きくのびをした。

「十分ありうるよ。夜中までは降らないらしいから」

 アイスレモンティーの紙コップを軽く揺らして、麗人れいとが答える。


「……根拠でもあんのかよ」

「だって梅雨でしょ?」

 失笑ぎみの一馬に問いに、麗人があっさりとそう言ったので、「だからどうした」と返したくなる。


「カズちゃんさあ、自分が犯人だと仮定して? パイプ持って。で、傘差してる人を背後から殴ろうと思う?」

「…………あっ」

 思わず一馬は声を上げ、江平も「ぬう」と太い眉を動かした。

「傘が邪魔でしょ。差してなかったとしても、手に持ってたら……?」

「――後ろからパイプで殴りかかられたら、とっさに傘で応戦できる」

「今は梅雨だよね。傘がいらない日って、犯人にとっては貴重なんじゃない?」

「そうか!」

 いつもと同じ口調ながら、麗人の瞳には油断のならない、鋭い光が宿っているのを、一馬は確かに見た。

「ルイちゃん、以前はアクション俳優目指してたっていうから、活発な子だったろうけど、でも成人男性を襲うわけだからね。背後からというのは大事なポイントだろーね。となると、ターゲットが傘を持ち歩くような日は、避けたいよね。今夜動く可能性は、あったんじゃないかな?」

「なるほど……」


 ……コイツやるなあ、と思ったのに。


「なんなら、オレの下着を賭けてもいいよ」

「ごふっ」

「死んでもいらん!」


 麗人のトンデモナイ提案に、江平がむせこみ、一馬は悲鳴のような声を上げて、賭けが始まる前から戦利品を取得する権利を放棄した。普段と同じ、ふざけた態度で鋭い指摘を見せるかと思えば、そのままの流れでなぜこう不毛で馬鹿馬鹿しいことが言えるのか、この男は。


「あ、でも、ルイちゃん、昨夜黒川くろかわを認識したかなあ? 仮に黒川に気づいたとして、どう考えるかはちょっとわからないね。それに、ルイちゃんと広田のおっさんと、個人的なスケジュールの折り合いがつかない可能性もあるねえ。……うーん、そーかぁ」

「その賭けは不成立だな」

 大急ぎで一馬は提案し、江平も幾度もうなずいて力強く賛同した。


「不成立、かなぁ……そんなに、オレの下着、いらない?」

「いるわけないだろう! つうか、なんでそんなに、下着を賭けたがるんだ!」

岬井みさきい、声を下げろ」

 江平の、頭を抱えながらの制止は、遅きに失した。一馬の怒りは、周辺の人々から、ありがたくない種類の脚光を浴びてしまっている。


 わかってはいるはずなのに。木坂きさか麗人が男にこういうことを言ってくるのは、おちょくり目的だと。いや、女性相手にもそんな発言をしているとは思いたくないが。

 どうしてなんだろう。非常識なのは俺じゃなくて、コイツなのに。なぜひんしゅくを買ってしまうのは俺なんだろう……。一馬は、疲れ果てた心身をぐったりと椅子に投げ出した。


 …………けど。一馬をおちょくり、くすくす笑ったまま、麗人はある可能性に考えを寄せていた。


 広田はいなくなった。もし今晩も事件を起こす計画であったとしたら、……ルイはどうするのだろう? あるいは、パートナーを広田からタカに代えて……。もちろん、タカがルイの味方でないとしたら、ルイ自身に危険が及んでいるかもしれないのだが。


「……雨くさいな、空気が」

 小さく、麗人はつぶやいた。


 雨は迫っている。だが、夜中まではもつ、それまでには帰宅できるとわかっているなら、傘を持ち歩く人はどれだけいるのだろうか。

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