4.その名は涙

30 新旧彼氏対決(誤解)

 駅から1本入ったその道は、この時刻でもう人通りがほとんどなかった。黒川くろかわはバイクを下りてヘルメットを脱ぎ、目指す部屋を見上げた。例の、安そうな古アパート。ここからでは在宅かどうかわからない。カーテンも遮光性だろう。

 もはや小細工不要だ。


「おい」

 アパート2階に上がる階段に足をかけようとしたとき、どこからか声がかかった。気配を察してはいたので、驚きはなかった。振り返ると、道の反対側の暗がりから、歩み寄ってくる男がいる。アパートそばの外灯の明かりが、男の人相を映し出した。行儀の悪そうな顔と品性を疑いたくなる服装だ、と黒川は、自分自身のことをかえりみることなく分析した。背が高く、骨太そうな体格。20歳前後くらいだろうか。遠慮なく黒川をにらみつけてくる。ああ……こいつは、と思い当たった。昼間ここを訪れたとき、出てきた広田ひろたと言い争いをして、ここの2階の部屋に入って行き、すぐつまみ出されていたあの男。


「お前、昼間もここに来て、俺の後をつけてたろう」

 ばれていたか。まあ、あの道は人通りが少なかったから、気づかれても仕方がないが。黒川は直接回答せず、質問で返した。

「お前が、マサキってヤツか」

「ほう、知っていてくれたとは光栄だな」

 コイツ、その言い回しを使ってみたかっただけだな。……こんな事態でなければ、吹き出していたかもしれない。


 一応、聞いてみることにした。

「ルイはどこにいる」

「なにがルイだ。俺の女をなれなれしく呼ぶんじゃねえよ」

 ルイの彼氏か。あるいは自称か。


「ルイはどこだ。無事なのか。面倒事に巻き込まれているかもしれねえんだぞ」

「なにがどう面倒だか知らねーけどよ。心配はいらねーよ」

 マサキとかいう男は、にっと唇を波打たせた。

「さっき電話した。今から帰るとよ。なんかトラブルに遭いかけたらしいけど、どうにか逃げ出せたって。帰ったら話があるってえから、俺はここへ来たんだ」

 ここへ来る前に、タカからは、ルイが不安がっているだろうから一緒にいてやれよ、と勧められていたので、ちょうどよかった――そこまではマサキは明かさなかった。タカはやっぱりコワモテだけどいいやつだと、マサキは思っている。


 黒川の方は、マサキに聞こえないようにため息をついた。――そのトラブルってのは、お前が引き寄せたんじゃねえのか。まあ、ひとまずルイは無事らしいが。


「タカってのは、お前のオトモダチか」

 黒川は直球を放ってみた。マサキの顔色が微妙に変わる。

「……どこから何を聞いてきやがった」

「お前が思うほど聞いているわけじゃ――」

「ルイか。お前、なんでルイからそんなにあれこれ……ルイとどういう関係だ」

 ……質問に答えてんだから、聞けよ。黒川はあきれ果てて、口をへの字に歪めた。それがマサキには、侮辱の笑みだと映ったらしい。

「何がおかしい」

 マサキは眉間のしわを深くした。いや、と黒川は飲みこむ。

 この状況でルイが戻って来たら、とんでもなく面倒な事態になりそうだ。しかもこの男、近所迷惑という言葉を知らなさそうに見える。


 ――どのみちコイツには、いろいろとお話を伺いたいと思っていたところだ。手間がかかるが、ルイと同時に相手どるのは避けた方がいいような気がした。


「落ち着いて話ができる、いい場所知らねえか」

「望むところだ。ついて来い」

 返事も待たずマサキは歩き出した。黒川は、腕にヘルメットを引っかけ、バイクを押してついて行った。この先どう事態が転ぶか不明瞭だったので、バイクも持って行くことにしたのだ。


 聞きたいことが山ほどある。「会話」に向いた環境があるはずだった。

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