53 梅雨に煙草はきまらない
嘲りと蔑み。無責任な憐れみ、中途半端な同情。異物を見るような目つき。こいつなら逆らってこないだろうという、根拠のない侮辱。小心で利己的な欲望からくる、不法な行動を強いて自分だけが利益を得ようとする、もっとも恥ずべき圧迫。
無造作に、何が悪いのかわからないという表情で、他者の顔面を泥の中に押し込み、踏みつけにして。
なぜ、そんな行為が、平然とできるのか。
まるで、相手は人ではないとでもいうように。
けれども――誰しも、押しつけられた泥の中から、顔を上げる権利があるのだ。
黒川自身がルイに訴えたように、ねじこまれた泥の中から顔を上げる権利を、誰も取り上げることはできない。
しかし一方で、当人には「泥の中から顔を上げない権利」もあるのだ。おさえつけられることに疲れたとき、顔を上げることに虚しさしか感じなくなったとき、……顔を上げることをやめてしまう人も、いるのかもしれない。泥に順応する道を選ぶ人も、いるのかもしれない。
だが、そこは、泥でしかない。踏みにじられた姿勢のままで、泥の中に顔を埋め続けていても、いつか窒息してしまうだろう。
そしていつでも、どんなときでも、押しつけられた泥の中から顔を上げる権利は、残されている。
たとえ、どれほど踏みにじられようとも。
幾度、泥の中に顔を押し込まれようとも。
それでも。
それでも……。
〇
……去年の4月2日。
数日後に
高校生か。――なんでもいい。少なくとも3年ほどは、親戚と顔をまともに合わせなくて済みそうだ。それが何よりもありがたい。
ゆっくりと、ドアが開かれた。
「ごめんくださーい」
ひょい、とひとりの男子の頭がのぞいた。元気よく跳ねる髪を伸ばして、後ろで束ねている男だ。黒川より少し背が高そうである。整った顔立ちだが、目の輝きは美形というよりいたずら小僧の色合いだ。ファッション全体が、黒川には縁のなさそうな、おしゃれなまとめ方だった。
「同室になった、
ふと、視線がぶつかり合った。
ただそれだけだった。……それなのに、どうしてか、ふたりは互いに、ある確信を得たのだ。――こいつは自分と似ている。自分と似た何かを隠し持っている。もしかすると、こいつとなら……。
晴れて明洋高校の1年生となった麗人と黒川は、ひと月と経たないうちに、無二の親友同士として校内で認識され、それ以上に無二の問題児コンビとして悪名を
〇
黒川の目線はまだ、雨の向こう側に漂っていた。口にくわえた、かつて煙草だったものの先端では、雫が少しずつ成長しつつある。
麗人はあえて、革靴の底を砂利にこすりつけながら公園に近づいた。黒川もなんとなく、接近に気づいてはいたが、わざわざ確かめる必要性までは感じておらず、特段の反応はみせていない。無言で身じろぎもしないまま、麗人を待っていた。
「……はぁい」
冷たく濡れた前髪を押し上げながら、麗人はベンチの10歩ほど手前で立ち止まった。
黒川はわずかに首を動かし、軽口をたたいた。
「色男が台無しだな」
実際に、ふたりともひどい有り様だった。殴り合いの大立ち回りの末に、雨に打たれればこうなるだろう。あざが浮いたり、血がにじんだり、泥まみれになったり、服装が乱れたり……それが丸ごと水びたしで、髪もめちゃくちゃだ。じっとりと濡れた黒川の片頬を、雫が滑り落ちていく。同じ感触を、麗人は自分の左こめかみの辺りに感じていた。
「こういうのはね、水もしたたるいい男、ってのよ」
「お前にしちゃ、ありきたりだな」
「頭がうまく働かないときだって、あるよ」
「違いねえ」
どちらからともなく、小さく吹き出す。雨に濡れたベンチにタキシードのまま、かまわず麗人は腰かける。黒川の隣に、少し間を置いて。
「やれるだけのこたぁやった」
黒川は、誰もいない前方に、告げた。
「そう?」
麗人もまた、無人の空間に確かめる。
「ああ。後は本人が決めることだ」
「なるほど」
抽象的で簡潔な、それが報告だった。
「――メシ、食いそびれた」
ぼそっと、黒川がつぶやいた。
「えっ、晩飯? 食ってないの?」
「食ってねえ。途中でジュースくらい飲もうとして、それも結局できんかった」
「ああー、そーか、
「いろいろ片付いたら急に腹減った。目ェ回る」
「非常食のたくわえ、ある?」
「カップラーメンとか、酒のつまみとか、それなりにある」
「んじゃ、帰ろうよ。このままこうしてたら飢え死にしちゃう。オレもけっこう腹減っちゃったのよね。こんなぐちゃぐちゃじゃコンビニも行けないし、寮の方が早いよ」
麗人がぼやくのも無理はなかった。彼もサンドイッチ程度しか食べておらず、その後のエネルギー消費量も馬鹿にならなかったのだ。
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