6.Lazy Rain

52 雨が降る

 雨が降る。降りそそぐ音はごくかすかながら、なにものをも逃さず、濡れそぼらせてしまう雨が。たたきつけるような強さではなく、あらゆるものにじっとりとしみ込むように。外灯の光の中を、無数の小さな雫が降下していく。あとからあとから。


     〇


 大通りの最寄りのスタンドに自転車を返却してから、麗人れいとは徒歩で脇道に入った。


 すでに多くの人々がまどろみの世界に旅立っていても、おかしくない時刻だった。立ち並ぶ住居は7割ほどが、中の人々の安寧のひとときを守りながら、自身もまた眠りに落ちつつある。人の気配は麗人ひとりだけで、ただ雨の音ばかりが、静寂の道の奥へといざなう。

「あらら、カズちゃん、パソコンとか持ってたはずだけど、大丈夫だったかな」


 いつの間にか、タキシードはたっぷりと水分を含み、重量を増してのしかかってきている。麗人は見上げた。無数の雫が途切れることなく飛び降りて、頬や毛髪にまとわりつく。顔といわず体といわず、じっとりと濡らしていく。


 ごくわずかに笑った。タキシードがさらに重くなることもかまわず、……むしろ微妙に歩をゆるめた。黒い蝶ネクタイのフックをはずす。つ、と片脚を上げ、ステップを踏む。両腕をひろげて、ゆっくりとターンする。たぶん見ている者のいない、小さなステージで。

 さらに麗人は、降りそそぐ雨粒の中で踊った。軽やかに。


「…………なんで?」

 中学生になったばかりの季節、母の葬儀が済んで間もないある日、思わずそう叫んでいた自分を思い出す。

 あの日、彼の前には、ダークスーツをまとったままうつむいて、無言を保つ祖父がいた。

「かえしてよ。……オレの父さんと母さん、かえしてよ」

 祖父はさらにうつむいて、ひとことも発することはなかった……。


     〇


 私立明洋めいよう高等学校男子寮の敷地から少し歩いたところに、小さな公園がある。公園とはいいながら、遊具は鉄棒だけ、子どもが自転車の練習をするほどのスペースもとれない。そのくせ、片隅にはしっかりした造りの東屋あずまやがあり、そばには自動販売機とゴミ箱も設置されている。ここには寮生たちばかりか、ほかの生徒たちも、通りかかる中学生たちも、よくたむろしている。ただ小学生以下はあまり見かけないところだ。さすがにこの時刻は人気ひとけがない。


 黒川くろかわは、東屋の中ではなく外に設置された、雨ざらしのベンチを占領していた。


 寮には門限があり、それを過ぎると門が施錠されるので、自転車やバイクを出入りさせることができなくなる。門限破りの寮生たちは、自転車等をこの東屋の下に「一泊」させ、身ひとつで寮の塀を乗り越えて部屋に戻り、翌日何食わぬ顔で東屋に泊めた「客」を寮の敷地に回収する、ということをよくやる。この夜の黒川も、バイクを東屋の屋根に預けていたが、自身はなぜか、降り続く雨の下にいた。


 サングラスを外したままだ。顔も体も、雨粒になぶられるにまかせている。視線はぼんやりと中空に投げ出されているものの、何もとらえてはいない。くわえたままの煙草はもうたっぷりと水気を帯び、何の役にも立たなくなっている。


 ――黒川の心は、ずっと遠くにあった。


 広田やタカのようなやからには、天井知らずの怒りが噴きあがる。だがその一方で、あいつらをいくら殴ろうと自分の生まれや境遇が変わるわけではないということもわかっていた。怒りも大きいが、それ以上の虚しさが胸を満たす。こんな奴を殴っても仕方がない――。黒川自身、中学生の頃は、持て余すほど突き上げる怒りに支配され、暴れ回っていたものだった。半グレ集団相手に「狂犬」ぶりを発揮していたのは、強さを追求するためばかりではなかったのだ。あの頃は自覚していなかったが、今ならわかる。やり場のない、どうにもならない怒りのぶつけ先を求めていたのだと。


 だがいつしか、疲れ果ててしまった。暴れることにではなく、自分自身の感情に。怒りに振り回された後の虚脱に。

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