46 あの日にさよならを

「ここで、新しいお友だちが増えるって、楽しいことなのか、悲しいことなのか、わかんないね」

 ……あのとき、どうしてそんな弱音をハルくんにこぼしてしまったのか、今ならわかる気がする。


 ルイが小学3年生になったある日、「ハルくん」がルイの暮らす施設にやって来た。ルイよりひとつ年下だった。

 ここへやって来る子はたいがい、うつむいて、怯えたような表情を凝固させている。かつてのルイ自身がそうだったように。ハルくんもまたそうだった。


 当時施設には、下級生に威圧的な態度をとっておもしろがる、性悪な中学生二人組がいた。彼らがさっそくハルくんを脅しつけようとしたとき、ルイはとっさに、背後にハルくんをかばって、気丈にも中学生に言い返したものだ。中学生もさすがに鼻白んだのか、それ以上ハルくんにからむことをやめた。


 年齢が近かったルイとハルくんは、よく一緒に行動した。ルイは、ハルくんを守ったり世話を焼く立場でいることに、満足していた。最初はおどおどしてルイを頼っていたハルくんも、施設での生活に慣れるにつれ、のびやかな表情を見せるようになっていった。


「おれがやる」

 施設でのちょっとした作業のとき、ハルくんがそう言って、ルイから力のいる作業を引き受けることが増えた。

 やっぱり、男の子だな。――当時はっきり思ったわけではないけど、でもきっと、そんな風に感じ取っていたのだろうと思う。そしてたぶんいつの間にか、どこかでハルくんに、甘えていたのだろうとも思う。


 けれども、9か月ほども経ったある日、そうした日々は突然、終わりを告げた。ハルくんが、引き取りに来たという親戚に、引っ張られるようにして、施設を後にしてしまったのだ。本当に急な来訪で、子どもたちも施設の職員たちも、半ば呆然としたままだった。戸惑ったように腕を引かれるハルくんは、最後に一度だけ、ルイを振り返った。

 不安そうな顔。

 が……いつの間にかルイは、ハルくんの最後の表情に、別の解釈を移植していた。


 おれがいなくて大丈夫か、とルイを気遣う表情だったのだと。


 ハルくんはあたしが守る、と決めていたのに、ルイは体が石になってしまったかのように、立ち尽くすだけだった。そして、それきりだった。


 ハルくんがいつも聞いていた、そしてルイもよく一緒に聞いていたオルゴールは、彼がいなくなってひと月もしないうちに、壊れてしまった。そしていつの間にか処分され、なくなってしまった。


 ルイは施設で成長した。その間も、いろいろな子がやって来て、去って行った。でもハルくんは二度と姿を見せることはなかった。彼を連れて行ったおばさんはとても怖そうな表情だったけれど、いじめられたりしていないだろうか……。


 いつしかルイの義務教育期間も終わりに近づいていた。どういうわけでか、ルイの家庭事情を知った同級生のグループに、脅されたりいじめられたりの、苦痛ばかりの中学生活だった。高校に進学することに気を引かれないではなかったが、先立つものもなく、両親には期待するだけ無駄だった。選択肢はなかった。


 児童相談所からときおり訪ねてくる人が交代し、広田ひろたという男性になったのはその頃だったと思う。子どもたちに「困ったことはないか、悩んでいることはないか」とよく聞いて来る、親切な人だと思っていた。ルイは松下まつしたの紹介で、仕事につく段取りができ、ひとり暮らしの準備をし、施設を出て……ようやく生活に慣れ、いろいろなことを忘れて、自分は社会で生きていけているのだと思うようになった矢先に、あの広田が、突然アパートにやって来たのだ。最初は、施設を離れた自分の生活の様子を見に来てくれたのかと思った。それなのに、広田の笑みは薄汚れた埃にまみれていた。

 広田は――駒として利用するために、施設を離れて自活できるようになった子どもに、目を付けていたのだ。


 地獄だった。


 ようやく、地獄のような生活から抜け出したと思ったのに。もっとひどい地獄が待っているなんて。この手で人を殴る。なんのゆかりもない人を。その上「天誅てんちゅう」だと言わなくてはならない。天誅って、卑怯って意味だっただろうか。


 誰かに助けてほしかった。マサキが心配してくれたけど、どういうわけか心に浮かぶのはハルくんのことばかりだった。小学校の頃から会っていないのに。どこにどうしているかもわからないのに。


 マサキが会わせてくれた、タカとかいう友人は、すごく嫌な感じがした。彼らのたまり場だというガードそばのバーに連れて行かれた。マサキは、助けてもらうにはちゃんと話さないとなんて言って、そんなところまでという事情までぺらぺらしゃべってしまった。そのときのタカの顔を見たとき、心底後悔した。広田と同じ笑い方をしていた。他人の弱みを握ったことを喜ぶ顔。

 たぶんマサキ、あたしのいないところで、もっと細かいことまで話してる。


 もうだめだ。

 あたしは……どこまでちることになるんだろう。


 ハルくんに会いたい。小学生の頃の姿のままでもいい。

 助けてほしい。


 ルイにとって「ハルくん」は、子どもの頃の、純粋できらきらしたルイ自身でいられた頃の、大切な思い出だった。ときどき会いたいと思っていたが、それはもうかなわないことだと、どこかでわかっていた。


 ……なのに、本当にハルくんと会えたなんて。

 ハルくんが、助けに来てくれるなんて。


 背も伸びて、声も低くなって、目つきがだいぶ鋭くなって、話し方も立ち姿もなんだか力強くなって。でも、本質的な何かが、あの頃のままだった。やっぱりハルくんだった。


 ハルくんの言い方は、きっぱりとして厳しくて。自分が見たくなくて目をそらしていたものを、ちゃんと見ろと突きつけて。

 それなのに、……どうしてこんなに、優しいって思えるんだろう。

 でもこれで、はっきりと、わかった。あたしはハルくんにとって、過去なんだ。ただ昔のよしみで、見ていられなくなったから、助けに来てくれたんだ。ハルくんの中で、あたしは色あせた写真でしかない。


 聞いてみればよかったかもしれない。聞いても仕方がなかっただろうけど。ハルくんに今、好きな子がいるかどうか――なんて。


 …………さよなら、ハルくん。

 もしまた会えたら、そのときには……。

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