39 走れ、黒川!

 高速道路に入るのがかえって大回りになるため、黒川くろかわのバイクは一般道をひた走った。

 交通量はそれなりだが、渋滞にはならず、比較的スムーズに流れている。厚く重い雲が頭上を覆い、月も星もひとかけらも見えない。空気中の湿り気がかなり高まっているのが感じ取れる。


 それにしてもルイのやつ、存外世話の焼ける女だったな。ガキの頃とは逆で、おれが世話焼いてんだもんな。快足を飛ばすエンジン音に紛れて、ほんの少しだけ黒川は唇をゆがめる。


 ハルくん、ありがとう。――それが聞けただけ、首をつっこんだ甲斐があったというものだ。


 悲しいことに、世の中には、自分とは事情が違う、というだけの理由で、相手を侮辱していいのだと解釈する人がいる。

 個人的な事情をくんでほしい、とまでは望まない。だが、なぜ、理不尽な事情の中で生まれた子どもを「見下していい相手」だと思うのか。

 自分自身が手を汚さずにすませるための道具として。

 嫡男が生まれなかった場合のスペアとして。

 嫌がらせを楽しむためのサンドバッグとして。

 ただ生存しているだけなのに、理屈にもならない理由で次から次へと頭をおさえつけられ、顔を泥の中に無理やり押しつけられることがどれだけの屈辱か、やり場のない苦しみと悲しみと怒りがどれほどの濃さか、想像してみようともせず。

 生まれつきばかりではない。人にはそれぞれ事情がある。なぜ他人のそれを、「踏みつけにしていい」「侮辱していい」「搾取していい」材料だと思うのか。


 なぜ、相手を「人」ではなく「道具」だと思うのか。


 人間とは、それほどまでに愚かな生きものなのか。


 ……少し前まで、黒川自身、そう思っていた。幼い頃から、いじめられ、疎外され、侮辱され、無視されて、生きてきた。心通わせられると思えた相手は、ほんの少数だった。たとえ少なくても、かけがえのない相手だと、子ども心にもなんとなく感じていた。けれどいつでも、そうした相手との交流は、外部の意図によって無理やり、それも突然に終わらされた。別の親戚の家に追いやられたり、転校を余儀なくされたり、居場所のように思えた施設から急に連れ出されたり。そしてまた、自分を冷たく扱う人々の中に放り出された。生きていくには心を閉ざすしかなかった。だからもう、誰のこともいらないと思うようになった。安らぎや楽しさというものを知った後の奈落は、より深く、暗く、重い失望をともなった。ならばもう一切、誰とも心地よい交流など持ちたくはない。自分の一生はおそらくずっとこうなのだ。だから……強くならなくてはならない。ひとりで生きていくために。そう思っていた。


 子どもに寂しい思いをさせている親なら、痛めつけてもいいだろう……広田ひろたの言葉を思いだす。黒川は腹の中で精一杯毒づいた。今どきなんて視野狭窄きょうさくな奴だ。しかも家庭を見守る最前線の仕事についていながら。誰よりも親自身が、子どものために胸を痛めていることだろうに。離婚した大人とその子ども、家庭の福祉に関わる仕事をしている人、全員に土下座して謝れ。畜生、やっぱり、ぶん殴っておけばよかったなと、今更どうしようもないことを思う。


 ――歪んだ性格のくせに小心者の広田は、自分の職能を悪用して、幣原しではらルイに目を付けた。彼女のもっとも痛いところにつけ込んで、自分の手駒にした。彼女が人を襲っているところを撮影し、さらなる脅迫のネタにする一方で、それを観賞することで自分の歪んだ鬱憤うっぷんを晴らしていた。耐えられなくなった幣原ルイは、彼氏のマサキに相談した。マサキは、ルイを心配する気持ちは本物だったのかもしれないが、考えが浅く、つき合う友人も悪質だった。マサキから話を持ちかけられたタカは、今ならルイを利用すれば、事件を起こしてもルイと広田に責任を押しつけられると考え、グループの仲間を招集した。当然ながら、最初に血祭りに上げたのは広田だった。広田とルイに抗議させてはならない。本当ならルイもおさえておかなくてはならないはずだが、逃げられてしまった。ルイを捕まえるのは造作もないと判断したのか。それともマサキにやらせようとしたのか。このあたりはよくわからないが、タカ自身はひとまず、彼女の手口を真似て事件を起こすために市内へ移動した。どうせルイが警察に訴えることができないのは明白だ。そしてタカもまた、ルイを脅迫し、黙らせて利用しようとしている。


 タカによって血祭りに上げられた広田を発見した黒川は、広田の所持品を探って、スマホのほかにもうひとつ、あるべきものがないのに気づいた。車のキーだ。あのスーパーの辺りは電車もバスも不便な交通事情を抱えている。今夜も犯行を計画してルイを呼び出したはずなのに、しかもあの買い物内容からして、車で来店するのが自然なはずなのに、肝心のキーがない。タカが取り上げたのだ。このあたり、16歳にしてバイクに乗る黒川だからこその着眼点だったかもしれない。麗人れいとが「この行動範囲なら車を使っている」と指摘したのも大きい。そして広田の車には、今晩ルイに行わせるはずだった犯行に必要なものが載せてある。タカが利用しないはずがない。仲間は全部で10人くらいいるらしいから、最低でももう1台は自分たちの車を使っているだろうが、それでも広田の車で乗り付けることにはいろいろなメリットがあるはずだった。時刻が中途半端だったから、タカたちがひと暴れの前に腹ごしらえしたとしても――もう何件かは事件を起こしているだろう。麗人が「まかせろ」と言ったとはいえ、タカを追いかけるには、それなりの手間暇がかかるはずだ。


 今ごろ、麗人たちは――。


 ヘルメットの内側で、黒川の眉間のしわが深まった。……おれは何をやっていた。最初にルイを目撃したとき、無理やり追いかけて、腕をつかんでいれば。最初にルイのアパートを訪れたとき、マサキなぞ放って部屋に押し掛けていれば。――こうはならなかっただろうに。


 後悔はいつでも苦い感情だ。喉の奥をざらざらと締めつけてくる。だがもう取り返しのつかないことを、ぐじぐじと悩んでいても仕方がない。今の自分にできることは、一刻も早く、そして事故に遭うことなく、彼らに合流することだ。思い悩むのは、すべてが終わってからでいい。


 エンジンが、湿度を増す夜の闇に、吠えた。

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