37 顔を上げろ
「お前まさか、自分の人生もう終わりだとか、ロクでもねえこと考えてんじゃねえだろうな」
びくん、とルイの体が震えた。
――具体的な形をとった想いではなかったかもしれない。けれど、言われてしまった、という小さな衝撃が、ルイの体を震わせたのだ。
あのスーパーで、タカから逃げられなかったら、今ごろどうなっていただろう。
どのみち、このままここにいたらタカがやって来るのは時間の問題だ。そうなったら……どうなるだろう。
もう、
「お前の人生の価値はな、今ここから、どう立ち上がるかで決まるんだよ」
ぴし、とルイの感情の芯が、鞭打たれた。
「お前、警察に行くより、自分を捨てる方、選ぶのかよ。度胸があるのかないのか、どっちなんだ。おれには、警察行く方がずっと楽に思えるんだが」
目が、熱い。
……いっそ、終わった方が楽だ。その瞬間には大きな勇気がいるけれど、その後のことを考えなくていい。最後にひとつ勇気を出すだけで、すべてを終わらせることができる。何もかもから、永久に解放されるのだ。
だけど、……生きながらえることは、その後がある。立ち上がらなきゃいけない、這い上がらなきゃいけない、そんなプレッシャーに潰されそうになりながら、自分の罪を背負って、結局這い上がれないままに。多くの人たちから冷たく黙殺されて。
本当は、そうしなきゃいけないことは、わかっている。
でも、投げ出した方がずっと楽だ。
もう疲れた。
脅されて、利用されて、嫌なものを無理やり押し付けられる生き方に。
踏みにじられて、泥の中に顔を沈められるような日々に。
それなのに……真っ向から、そう言われるなんて。しかも、もう10年くらい会っていなかった人から。大切な思い出をくれた幼馴染から。
急激に歪んでいく視界の中心で、ずいぶんと男らしくなった「ハルくん」は、顔をしかめて頭をかいた。
「なあ、
「おれもあんまし、説教できる立場じゃねえわ。中学で荒れたし、今でもまだ、まっさらな道に戻ったとは言えねえし、まっさらな道には戻れねえと思ってる。けど、マシにはなった。まだ綱渡り状態だけどな。それでも、向こう側に落っこちたまんまじゃいねえ。マシになったんだ。これでもな」
たぶんおれは運がよかったんだな――ある人物の顔が、脳裏をかすめる。
「何歳になろうが、遅すぎたってことはねえ。だからちゃんと、おつとめ果たして来い。それが終わってからなら、何始めたっていいんだ。俳優になろうが、店開こうが、勉強しようが、ハーレム作って男に貢がせようが、好きにやれる。その前に、ツケ払って、身ぎれいになっとけや」
たとえ何十回何百回、頭をおさえつけられて、顔を泥濘につっ込まれることになろうとも。
それでも、そこから顔を上げる権利を、誰ひとり奪うことはできないのだ。
――床にぽつんと落ちた雫を、黒川は見なかったことにした。
「あとな、個人的な希望言わせてもらうと、彼氏なんとかしろ。あの男は正直がすぎる馬鹿だ。つき合う友人もタチが悪い。もうちっと頭の中身が入ってる男選んだ方がいいぞ。それでもアイツがいいってんなら勝手にすればいいけどな」
ガラでもない話をしたから、背中がかゆい。黒川は切り上げることにした。あとはルイが自分で考えるべきことである。それに、もうだいぶ時間を食ってしまった。麗人たちが待っている。この後マサキも顔を出すかもしれないし、ここで鉢合わせればまたややこしい事態になるだろう。長居は無用だ。
ごく自然に、黒川の頭の中でスイッチが切り替わった。波立つ感情が一瞬にして凪いだ。――まだ、やるべきことがある。そのために必要な情報を得なくてはならない。感情論のフェーズは終わりだ。
「ちょっと聞くけどな。タカってのは、どんな奴だ。何人くらいいた?」
黒川の表情が微妙に変化したことを感じ取ったとき、自然とルイの涙も止まっていた。
「……あたしもよく知らない。ちらっと紹介されたことあったけど、やな感じがして、あんまり話す気になれなかったし。マサキの友だちなんだって。あたしのこと、友だちに相談してみるって言ってたから。すごくガラの悪そうな男たちだった。見るからに半グレって感じ。
「……店に逃げたのは賢明だったな」
黒川はそんな感想を述べた。――タカは事件を起こすつもりだ。ルイに責任を押しつけるという特典付きで。つまり、ルイと似た事件を起こすつもりなのだ。
タカはなぜルイを放って、行ってしまったのだろうか。この後の「用事」に忙しかったからか。ルイのアパートも把握しているだろうし、ルイが警察に駆け込むはずもないから、タカが彼女の身柄をおさえるのは簡単だ。後回しにして差し支えないと判断したのだろうか。いや、もしかすると、さっきのマサキが、ルイに会うついでに彼女と一緒にいて、身柄をおさえておけとでもタカに命じられていたのかもしれない。
タカの一味は、最低でもおよそ10人。車なら2台は必要だろう。そして、今までの事件現場と似たようなところへ向かった……。
「広田の車の特徴、教えてくれ」
「車……?」
ルイはけげんそうな顔になったが、さすがによく知っている車なので、正確に答えてくれた。車種、車体の色、ナンバー。そこまで聞き出すと、黒川は軽くうなずいた。
「もう行くわ。……元気でやれよ」
「待って、ねえ、そんなの聞いて、どうする気?」
もう体の向きを変えていた黒川は、背をそらすようにして天井を見上げ、1秒間だけ思案してから、ルイに顔だけをひねった。
「タカは、おれが警察に突き出す。餞別だ。だから、……もう、馬鹿なこと、考えんな」
「ハルくん、…………」
……黒川はわざと、立ち止まらなかった。すっと顔をそむけ、ドアから外廊下に出る。マサキらしい影は見当たらなかったが、足早に階段を下りた。そこでようやく足を止め、スマホを手早く操作して、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます