36 聞きたくなかった

「どうしたの」

 ルイの顔が曇ったのも無理はなかった。黒川くろかわの顔にははっきりと、殴打の痕跡があったからだ。

「お前の彼氏と殴り合ってきた。あいつのびてっから、しばらく来ねえぞ」


 わずかなルイの表情の変化を、黒川は見逃さなかった。


「マサキと?」

「ああ、あいつ、えれぇ誤解してたぞ。お前、おれのことどう話したんだよ」

 ルイは無言でドアを大きく開けて、黒川を中へ招じた。近所迷惑を考慮してのことだ。


 玄関に踏み込みつつ、黒川は素早くルイを見やった。痩せている――ちょっと痩せすぎかもしれない。黒川のよく知っているあの目元のまま、そこそこ美人に成長したようだが、表情が硬く暗い。髪を後頭部にまとめ上げていて、下ろしたらかなり長いのではないだろうか。美人ではあるが、今の姿に黒川は、恋愛感情のようなものを揺さぶられはしなかった。


「元気そうだな。元気がすぎて、とんでもねえことやらかしてるじゃねえか。お前、どういうつもりなんだ」

 上がりこむ予定もなく、玄関に立ったまま、黒川はストレートにぶつけた。修辞にこだわるつもりはないし、マサキとの立ち回りでずいぶん時間を食っている。のんびりと昔を懐かしむつもりは、黒川にはなかった。


「――やっぱり、ハルくん、だったんだ。ゆうべの……」


 ルイがつぶやくように答えたとき、黒川の中で何かが、ぱきっ、と砕けた。ひび割れて、砕けて、崩れ落ちた。もう修理のしようがないくらいに。


 黒川は少しばかりいらだち、核心に拳を打ち込んだ。

「脅されたんだな。広田ひろたに、両親のことで」

 無言のままルイがうなずいたのを、はっきりと黒川は視認してしまった。


 確かめたかった。

 確かめたくなかった。


 ――なんで、そらっとぼけねえんだよ、この馬鹿が。


「何やってんだよ。馬鹿じゃねえのか」

 たぶん、ルイは広田に逆らえなかった。――承知の上であえて、黒川はルイを突き放した。


「わかってるよ」

 苛立たしげに答えるルイの視線は、黒川から逃げて、彼の膝あたりをさまよっている。


「だけどさ……じゃあ、どうしたらよかったのよ。両親とも順番に酒浸りになって、とても子どもを育てられない状態で、今でも酒がやめられない、娘の連絡先を調べてお金をたかろうとするだらしない親だってこと、職場にもネットにも拡散するぞって言われたら……!」

 ルイは何かを振り切りたいかのように、首を振る。


「タカだって……結局同じだった…………あたしはいつも、そうやって脅されて、踏みにじられてばっかり……」


 もう、うんざりだ。


「ねえ、いつまで……びくびくして、脅され続けなきゃいけないの。好きで、選んで、あんな親のところに生まれたんじゃないのに。いつまで……社会に出て、まだ、頭をおさえつけられなくちゃいけないなんて……まっすぐに生きられないなんて…………なんのために、あたしは……」


 なんのために、生まれたんだろう。

 なんのために、生きているんだろう。

 あんな境遇を望んで生まれたわけじゃ、なかったのに。


「親ガチャ」――そんな言葉じゃ軽すぎる。


 それなのに心無い人たちは、まるであたしのせいであるかのように、面白半分に吹聴して、脅迫のネタにして、あたしをおさえつける。もう何年も会っていない親のことで。施設を離れて、自分の力で生きていこうという年齢になってまで。


 もう、這い上がれない。絶対に。永久に。


「同情はしねえよ」

 わざとすげなく、黒川は言い捨てた。

「『そんな親、捨てちまえ』――それが簡単にできるなら、誰も苦労しねえわな」

 伏せていた顔を、ルイは上げた。熱くにじんだ視界で、黒川はおもしろくもなさそうな表情をしていた。


「そんなもん、理屈でねじ伏せられるほど単純じゃねえし。割り切れねえうちは、無理に割り切る必要はねえだろ。むしろ、見捨てなきゃいけねえと自分を追い込む方が心臓に悪い。力づくでねじ切ったって、切り口が荒れるだけだ。枯れ落ちるときを待つのも、ひとつの手だぜ」


 枯れ落ちるとき……。


 もういないとわかっている親。

 自分を愛してくれることはないとわかっている親。

 それでも。

 子どもたちはどこかで期待してしまうのだ。迎えに来てくれることを。抱きしめてくれることを。今までの悲しく冷たい想いをしたことが、実は嘘だった、事情があったと、ひっくり返されることを。実際、そうして親のもとに戻れる子どもたちもいる。


 ……だけど、もっと冷たく、もっと悲しい現実も、少なくない。


 保育園の子どもたちが、夕暮れのガラス窓にぺったりとてのひらを当てて外を眺め、親の迎えを待つのと同じだ。あの光景を見るたびに、心がざわつく。あたしもあの子たちと同じなんだと。

 けれど、自分には迎えは来ない。かわりに来るのは、自分にもっとも汚い部分を押しつけて、徹底的に利用すようとする、別の迎え。


「言うことがきけないなら、……どうなるか、わかってるよね?」


 みんな同じだ。中学であたしをいじめていた奴らも、広田も、あのタカって男も。


 大きくなったら、あたしはアクション俳優になるのよ。――そんな夢はもうとっくに、泥にまみれて、千切れて。


 もう戻れないよ。

 だってあたしはもう、犯罪を起こしてしまった。

 だから。


「やり直せる」


 ――黒川は、はっきりと断言した。


「ただ、お前が脚突っ込んだところはかなりの深みだからな。荒療治がいる。それを厭わなきゃ、やり直すことはできる」

「どうすればいい……」

「想像つくだろ。警察にあらいざらい話して、おとなしく逮捕されることだ。おれの聞いている事情が本当なら、お前には情状酌量の余地ってモンがある。正直に全部しゃべるのが、罪が一番軽くなる道だと思うぜ。おつとめして、娑婆シャバに戻ったら、一刻も早くこの土地を離れることだ。広田ともタカとも関わらずにすむところにな。松下まつした先生のところにだけは、連絡先を伝えておいた方がいいと思う。あの施設は本当にお前を心配してる」

「…………」

 松下先生。


 本当に? 本当に……?


「お前まさか、自分の人生もう終わりだとか、ロクでもねえこと考えてんじゃねえだろうな」


 びくん、とルイの体が震えた。

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