35 Je te veux

 幣原しではらルイは、床に座りこんだまま動けなかった。

 

 気力を使い果たしたのだ。


 どうしよう。どうしたらいいのだろう。こうしているままでは駄目だと思うのだが、どうしようの困惑がぐるぐると回るばかりで、一歩も先へ進みだせない。


 タカと男たちが広田ひろたを取り囲んだとき、心臓を握りつぶされそうなおぞましさを感じた。あの後、とっさに彼らの目を盗んで、スーパーの店内に逃げた。たとえタカたちが追って来ても、下手なことはできないだろうと踏んだのだ。それでも追ってきたら……おかしな振る舞いには及ばないまでも、しつこくつきまとってきたら……。

 まさか警察に助けを求めるわけにはいかない。こちらも犯罪者だ。となると、店員にもうかつに頼ることはできない。なにより、店員もまた、信頼を裏切る人だったら……。

 タカの手下らしい男が2、3人、店内をうろつきながらルイを捜していた。見つからないうちに女子トイレに逃げ込んだ。個室に閉じこもって、途方に暮れた。10分ほどして、おそるおそる売場に出てみた。男たちはいなかった。あきらめてくれたのか。


 ……違う。タカがさっき言っていたことを思い出す。行ったのだ。あの目的のために。あたしのことなんか後回しでいいと思ったんだろう。それに、あたしのアパートも、マサキがタカにしゃべってしまっているかもしれない。それならなおさら、タカが今すぐにあたしを捕まえなくてもいいと思っても不思議はない。


 いつまでもスーパーにはいられなかった。マサキが得意そうに電話してきたので、話がしたいと言って、スクーターに乗ってアパートに帰った。もしかするとタカの仲間が待ち伏せしているのではと、途中からエンジンを切って、そっと押して近づいたけれど、誰もいないようだった。部屋に飛び込んで鍵をかけ、戸締りを確認して、気が抜けた。床に座りこんだら、今度はぞわぞわと恐怖が這い上ってきた。


 ここにも……いられないんだ。タカに知られている。マサキが来るはずだから、なんとか……そもそもこの件にタカを引き込んだのはマサキだ。頼っていいのだろうか? でも、もうどこにも、行くところなんてない。松下まつした先生は……だめだ。もしあの施設にタカたちが押し掛けてきたら、あそこにいる子どもたちに危険が及ぶかもしれない。なにより、犯罪者になってしまった自分を、松下先生に見られたくはない。


 ハルくん。助けて。


 どうしよう。小学生のときのハルくんしか知らないのに。どうして今……ハルくんに助けてほしいと思ってしまうんだろう。昨夜の事件のとき、ちらっと見かけたあの人が、ハルくんにちょっと似ていた、ような気がする。一瞬だったから確信はない。でも、どうしてハルくんを連想したんだろう。顔つきなんか、あの頃とはまるっきり変わっていてもおかしくないのに。

 あの頃の、小学生の姿のままでもいい。会いたい。

 何も知らなかったあの頃に戻れたら……。


 ……駄目だよ。もう、ハルくんに会う資格もない。


 ハルくん、あたしもう、駄目だよ。つらくなって、助けを求めた人はみんな、あたしの頭をおさえつけて、泥の中にあたしの顔を押しつけるんだ。そうやって、あたしを嘲笑うんだ。みんな、みんな。

 もう、疲れたよ。

 あたしの人生、これからもずっと、こうなのかな。


 それならもう、いっそのこと……。


 ――玄関でチャイムが鳴ったのは、そんな思いにとらわれかけたときだった。ルイは身をすくませた。自分がマサキを呼んだことをようやく思い出す。勝手なことながら、マサキに会うのが急に、怖くなった。

 どうしよう。どうしよう。


 いらだたしそうに、もう一度チャイムが鳴る。ルイは足音を立てないよう忍び寄り、ドアスコープから外をのぞいた。

 マサキではなかった。

 タカでもなかった。一瞬よぎった、タカの手下ではないかという恐れを押し流し、昨夜見かけたかすかな望みが、そこに形となって現れたのをルイは知った。チェーンとロックを外して、ドアを押し開けた。


「おうルイ、久しぶりだな」


 ガラの悪さなら、タカの手下といい勝負だろう。けれど、顔つきには懐かしいまでの説得力があった。


「ハル、くん……?」


 幼い頃、ほんの数か月だけ一緒に施設で過ごした幼馴染、黒川くろかわはるかその人が、ルイのアパートを訪れていた。

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