34 格の違い

 マサキは膝をおさえながら、ようやく立ち上がった。

「俺をめるために、わざと、……おめえは……プライドってもんは、ねえのか」


 黒川くろかわは、血のにじんだ唇をゆがめただけで、答えなかった。プライドならある。ただしそれは、物理的な強さそのものを追求することではない。目的をいかに効率よく、確実に達成するか。そのために土下座が必要なら、ためらうことなく彼は実行する。無料だし、それで本当に欲しいものがあっさり手に入るなら、これほど楽な方法はないと思うからだ。物理的な強さにこだわるのは、中学限りで卒業したのである。……そんなことを、この男に説明してやる義理はない。この男を嵌めた罠に、自分が陥る愚を犯すつもりは、さらさらなかった。


「なめんな!」

 マサキは襲いかかった。これまで何度もこいつを地に沈めてきたパンチが、あっさりとよけられたと思う間もなく、マサキは尻もちをついていた。顎を殴られたのだと、ようやく悟る。


 見えなかった……。


「ちッ!」

 起き上がる。

 そんな馬鹿な。そんなことがあるわけがない。俺の方が強いんだ。さっきのはマグレに決まってる。ほら、もう見切ってんだよ――が、黒川が繰り出したパンチを腕で受け止めた瞬間、そのパンチにはひとかけらの勢いも攻撃力も残されていないことがわかった。マサキのガードよりむしろ黒川自身の意志で、すんなりと停止したのだ。フェイント――その言葉が脳にひらめくより早く、黒川の体が一転していた。首の後ろに回し蹴りを入れられたと理解できたのは、自身の体勢が崩れた後のことだった。速い。馬鹿な。かろうじて踏みとどまった瞬間に、みぞおちに黒川の足刀が蹴りこまれていた。段蹴り。げほッ、と汚い声を残して、マサキの体は吹っ飛んだ。ガード下の、最奥のフェンスに激突し、ぶざまに転がる。マサキは咳き込んだ。体がぶるぶると震える。起き上がることができない。意識が揺れる。


 嘘だ。さっきまで、オレにずたぼろにされて、惨めったらしく転がっていたこの細い男が――オレよりもずっと強いなんて、そんなわけが……。


 黒川の攻撃は、重いダメージとなってマサキをたたきのめしていた。俺がこいつに負けるなんて、というショックが、さらにマサキから起き上がる力を奪う。いや……本能で、マサキは察してしまっていた。本当に演技だったんだ。コイツは滅茶苦茶強い。この俺が軽くあしらわれる程度に……。それは、恐怖と呼んでいいものだったかもしれない。


 もしかしてコイツ、タカよりずっとつええんじゃねえか……?


「急ぎだ。起こしてやれねえが勘弁な」

 黒川はもう、バイクのそばで身支度を始めていた。


「言っとくが、おれはルイの元彼じゃねえし、そもそもつき合ったこともねえ。ただの幼馴染だ。けど、ルイと付き合いたいなら、もうちっと頭使え。お前がバカなせいで、ルイはもっと困ってるし、今のおれの知り合いも迷惑かけられてる。おれが来たのは、そのためだ。ヨリも何もねえんだよ。ルイに嫌われたら、ちゃんと現実を受け入れろ。それ以上は、お前らふたりのことに干渉するつもりはねえよ。興味もねえしな。……それと――」

 黒川は、ぶざまに転がるマサキをにらみつけた。


「――お前と、ろくでなしのタカのせいで、ルイが早まったことを考えてないことを祈るぜ」


 今はそれが最大の懸念だ。

 この男、ルイの味方になりたいと言いながら、ルイをさらなる泥沼に突き落とした自覚は、おそらくないだろう。頭も悪いが始末も悪い。

 ルイがいい子だってことは、とっくにわかっているし、そう信じたかった。

 だからこそ……藁にもすがる思いで助けを求めた相手に、裏切られる経験が幾度も重なったら……。


 そんな気持ちなら、黒川だってよく知っている。


 ただ、それをわざわざマサキに説明してやる義理も、気分も、時間もなかった。もうこんな男につき合っている暇はない。もはや一顧だにせず、黒川はバイクをスタートさせた。

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