24 霹靂(へきれき)

「ああ、『ジュ・トゥ・ヴ』だね」


 去年のいつ頃だったろうか。たまたま入った店内で、子どもの頃からずっと気になっていた曲が流れていたので、黒川くろかわは同行していた麗人れいとにたずねたのだ。この曲のタイトル知ってるか、と。意外にクラシック曲をよく知っている麗人は、即答してくれた。

「エリック・サティの『Je te veux』――フランス語で、『きみが欲しい』ってとこかな」

「お前がナンパに使いそうなタイトルだな」

「あれっ、なんで知ってるの?」

「……………………まじでか」


 あまりのストレートさにあきれ返ってしまった一方で、10年近い喉のつかえがとれた思いだった。幣原しではらルイとともにあの施設にいた間、一室でたまたま見つけたオルゴールをなにげなく鳴らしてみたら、奏でられたのがこの曲だった。旋律は覚えやすく、すんなりとしみてきて、なんとなく心ひかれた。幼かった黒川は以来、手持ち無沙汰になるとよくその部屋にひとり閉じこもって、オルゴールに耳を傾けていた。その習慣はやがてルイにも気づかれて、彼女も加わるようになった。おしゃべりすることはほとんどなく、ただ思い思いに、オルゴールのこの曲に聞き入る時間が、ささくれだったものをそっとならしてくれるようだった。けれど、タイトルも作曲者も、施設の誰も知らなかった。どうかすると、そんなところにオルゴールなんてあったかしら、という反応だった。いや、誰かはその曲を知っていただろうけれど、黒川の言うオルゴールと直接結びつけられた者がいなかったのだろう。結局わからないまま黒川は施設を後にすることになったが、数年越しでようやく知ることになったのだった――。


はるかちゃんはまだ、広田ひろたサンにマトモに顔さらさない方がいいと思う。こっちはまかせといて」

 そう言っていた麗人を、バイクの後ろに乗せて児童相談所まで運んでやりたかったが、生憎免許をとってまだ1年経っておらず、二人乗りができないため、別々の行動となった。


 黒川のバイクは、人気の国産メーカーの型落ち中古である。免許は取得したものの、新車を買う経済的な余裕はなかった。黒川自身は、学生の間は新車に手を出すつもりは最初からなかったが。退勤ラッシュと重なり、風を切って疾駆とはなかなかいかない。気持ちがはやる一方で、このまま渋滞にはまり込んで動けなくてもいいか、と、矛盾した感情が渦を巻く。それでも少しずつ流れはよくなり始め、移動スピードは上がってきた。隣町の、幣原ルイのアパートを目指すとなると、地理的に高速道路はかえって不便で時間がかかるため、一般道で行くしかなかった。いつしか市街地を抜け、町並みよりも山林や農耕地が目立つようになる頃には、だいぶ暗くなっていた。曇り空だったとはいえ、日没を過ぎたようだ。外灯や、行き会う自動車のライトの中で、黒川のまとう黒いヘルメットと、黒を基調としてシルバーを配したバイクウェアがきらめく。


 スマホが振動したことには気づいていたが、停車するきっかけをなんとなくつかめず、走り続けていた。行く手に、どうやらスーパーと思われる建物と看板が見えてくる。市と町の境界線までもうすぐのはずだ。麗人が何か情報をつかんだなら、今のうちに把握しておくかと、休憩がてらスーパーの駐車場に乗り入れた。サングラスを外してポケットにしまう。スマホに入っていた麗人からのメッセージは、広田には会えなかったこと、職員たちの言動から推測される広田の勤務態度と、麗人自身は一馬たちと合流するという内容だった。


 それも想定はしてたけどな。ことのついでに黒川は飲み物を買おうと、ヘルメットを片手に自動販売機を探した。やはりスーパーとしては店内で買ってほしいのだろう、自販機は駐車場の奥の隅、壁沿いにひっそりと設置されていた。時間を惜しんで、黒川は自販機の方を選んだ。


 ……なんとなく黒川の意識を引っぱったのは、自販機の奥に落ちていた、買い物用の白いビニール袋だった。こんなところに捨てるなんて、マナーの悪い奴がいやがる。だが違和感が強まり、黒川は自販機に伸ばしかけた手を下ろして、観察を続けた。……中身も落ちている。箱ティッシュ、カップラーメン数個と割り箸、酒、ペットボトル……そしてすぐそばの、駐車場を囲む生垣は膝の高さくらいまでしかないのだが、自販機のちょうど陰になる辺りが荒らされている。まるで、重量のある何かを無理やり引きずって通り抜けた、かのように。黒川は生垣を跳び越えて、裏道に出た。舗装されているので引きずった跡は見受けられないが、生垣の枝葉が散らばっていたので、方向は容易にわかった。建物の裏側が集中する狭い道を、黒川は注意して見て歩いた。おそらく、この辺りの店や工場の従業員、あるいは搬出入する車程度しか入ってこない道だ。注意しなければ気づかなかった――数軒先の建物の裏の物陰に、倒れた人影を見つけた。黒川は駆け寄った。男だ。突っ伏した腕がかすかに震え、時折うめき声をもらしているが、この時刻にここを通る人はまずいないだろう。工場の裏手にあたる地点で、今日の操業をとうに終えて閉鎖されたらしく、人の気配はまったくない。翌朝誰かが出勤してくるまで、気づかれないはずだったのではないか。


「おい」


 呼びかけたが新たな反応はない。黒川は腕をつかんで男の体を転がし、あおむけにさせた。小さな外灯の光が照らす中に、腫れ上がって流血した男の顔がさらされた。黒川は眉をはね上げた。変形しているが、麗人が見せてくれたスマホの写真、そして黒川自身が昼間松下の施設で見た、あの男に間違いない。


 広田だった。

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