23 泥
日没が近づいていた。
――マサキ、あんなこと言ってたけど、……まさかね。
広田の車は無人だった。買い物があるから車のそばで待っているようにとの、広田の指示を思い出す。後部座席には不愛想なシートが広げられているが、端の方で、ちらりとパイプの先端が下からのぞいていた。この下に、忌まわしい道具が隠されているのだ。ストールと、軍手と、……。
卑劣で、用意周到なくせに小心者。いや、卑劣で小心者だからこそ、用意周到なのか。性根の汚らわしさに、胃がむかついてくる。
いつまで、こんな思いをしなくてはいけないのだろう。
「……いつまで、こんなことするの」
以前、ルイは広田にたずねてみたことがある。聞いたところで無駄だとわかってはいたが。
「おれの気が済むまでだ」
身もふたもない回答だった。主観的な基準。いつまででも、引っ張るつもりなんだろう。こんなことして、何が面白いのかわからない。むしろルイの中では、広田をさげすむ気持ちが強まるばかりだった。
こちらがわは、車がぎっちり詰まっているとはいえ、袋小路のような構造の区画なので、意外に人は通らない。そもそも、店舗正面の広く開放的な駐車場の方が圧倒的に利用者が多く、こちらの区画の存在を知らない人は案外いそうだ。店舗外壁に沿って、公衆電話と自動販売機が置かれているものの、あまり利用者もいないようだった。携帯電話が普及しているし、店に入れば同じ飲み物が自販機より安価で手に入る。だからこんなところに置かれているのかもしれない。
ルイは首をめぐらせた。そして……どす黒い予感に喉を締め上げられる気がした。白いビニール袋をさげて車に戻ってきた広田に――ではなく、その背後から近付いてきた男たちに。
「なんだ……きみたちは」
すぐに気配を察して、広田は振り返った。そして、にやにやと笑いながら近寄ってくる男たちに、声をふるわせた。男たちは5人ほどで、全員が20代前半くらいだろうか。
「幣原ルイさん、だったよね?」
男たちのうちのひとりが話しかけてきたのは、広田にではなく、ルイにだった。
ああ……この男は。アイツだ。
「マサキから聞いたよ。あんた、とんでもない迷惑こうむってるらしいね。――この男のせいで」
ひッ、と広田が奇声を上げて立ちすくんだ。嫌な予感が的中したことに、ルイは絶句することしかできなかった。にもかかわらず、広田に対して、こういうときは小心者なんだという、奇妙に冷静な軽蔑もわき起こっていた。
広田がルイをにらみつけてきた。いや、本人はにらんだつもりだろうが、怯えと猜疑が強く出てしまっている。お前こんな奴に何をしゃべったんだ、と。ルイは首を振るしかなかった。そうすることしかできなかった。この男に相談したわけじゃない。相談した相手はこの男じゃない。なのに――なぜ。
「助けてあげるよ」
男はそう言った。言葉とはうらはらに、善意らしきものが見つけられない口調と表情だった。声を上げかける広田に、男たちが群がる。ルイに話しかけてきたのが男たちのリーダーらしく、彼だけは広田に近づくことなく、ルイを振り返った。体格がよく、いかにも悪いことを楽しみに生活してきましたという表情を浮かべる男だった。歪んだ笑い方が、そう悪くはなかったはずの顔立ちを、奇怪に崩してしまっている。
「とりあえず、この男を始末してやるよ。それから――ゆっくり、話し合おうか」
広田のくぐもった声が、男たちによって向こうへ押しやられていく。
「…………何を?」
心臓が、何か黒いものに握りつぶされそうだ。ルイは、硬くひび割れた声をなんとか押し出して、たずねた。
「もちろん、お礼についてだよ。俺たちだって、慈善事業じゃないからね? それなりの感謝をしてもらわなきゃ」
真っ黒い雪が音もなく、ルイの胸中に降り積もっていく。急速に。
「マサキからいろいろと聞いてるよ、あんたがなんであの男に協力しなくちゃいけないのかっていう理由もね。それでなくても――あんたまさか、警察に相談したりしないだろ?」
ルイは半歩後退した――というより、かろうじて転倒をまぬがれた。視界がぐにゃりとねじ曲がって回り始める。まさか。ハイエナを追い払ってくれたのがハゲタカだったなんて。
この人もだ。
あたしは何度、こんな目にあうのだろう。
底なし沼にはまった…………ずぶずぶと、音もなく飲みこまれる感触。込める力はどこにも伝わらないまま、泥の中に吸い取られていく。足が、体が、腕が――やがて頭まで飲まれる。息ができない。光が見えない。もがいてももがいても……。
「すぐすむから、ちょっとだけ待っててくれな」
男は笑ったまま言った。買い物がつまったビニール袋が、投げ出される音がした。
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