22 山田、来訪

 木坂きさか麗人れいとが、市内の児童相談所の正面玄関前に立ったのは、夕方の6時を過ぎた頃だったろうか。


 夏至を過ぎてまだひと月ほどとはいえ、灰色の雲の切れ目からのぞく日光は傾き、セピアの光のまだら模様が地上に投げ散らかされている。この後、深夜から明日1日、また雨になるらしい。


 公務員の退勤時刻を過ぎてしまったが、そう早上りができるとは限らないだろう。まあちょいと敵情視察、広田ひろたサンとの話し合いに持ち込めればめっけモンね、くらいの心構えでいることにした。


 麗人の服装は、カラーシャツとボトムスを、やや緩く着たものだった。オーソドックスながら、シャツの色合いや着崩し方が洗練されていて、無造作ながらよく似合う。これまで雑誌やウェブ上の読者モデルにと声をかけられたことが数回あるが、応じたことはない。

 日中は彼にしては珍しいことに制服を着ていたが、身元のヒントになる服装はやめた方がいいだろうと判断したのだ。といって、お得意のタキシードで相手に印象付けるにはまだ早い段階という気もする。消去法での選択だった。


「さて」

 コンクリート造りの古い建物は、中途半端な光のモザイクをぶちまけられ、もうすっかりくたびれてしまったように見えた。敷地の片すみのガレージはまだシャッターが開いていて、停められている車の1台に、黒川から教わったナンバープレートがついていた。少なくとも一度、広田は戻ってきたようだ。正面玄関は、退勤する職員のためにか、施錠されていなかった。麗人は堂々と中へ入って、職員の執務室のドアを開ける。意外と多くの職員が残業していた。


「すみません、山田といいます」

 麗人は、姓名だけ偽って、正面から当たることにした。広田が自分の顔を見たのかどうか、微妙なところだ。向こうがこちらの顔を覚えていれば反応するだろうし、覚えていなければそれとなく話をするだけだ。どのみち、相談と持ちかければ別室に案内されるだろうから、その際の態度しだいかな、と麗人は大雑把な攻略チャートを脳裏に書き上げていた。

「広田さんとアポがあったんですが、なかなか来られないので……こちらに戻っておられないでしょうか」


 一番近くの座席にいた、40歳くらいの女性の職員が、室内を見渡して困ったように応じた。

「広田? ……ごめんなさい、今日はもう帰ってしまったみたい」

「あらら」

 麗人は小さくのけぞって見せた。これも想定内ではある。一馬が見つけだした広田のSNS(と思われる)が本音であれば、仕事にやる気がなく、退勤時刻になるが早いかさっさと帰宅してしまうことは、想像できた結末のひとつだった。


「そーですかぁ。広田さんの連絡先って、教えてもらえます?」

 ダメ元で麗人は聞いてみた。

「ちょっと電話してみましょうか」

 やはり直接教えてはもらえなかった。「日村ひむら」のネームプレートを首から下げたその女性職員は、デスクの受話器をしばらく耳に当てていたが、あきらめたように戻した。

「やっぱり出ないわね」


「なに、広田さん、アポ忘れて帰っちゃったの?」

「そうなんですよ、杉崎すぎさきさん」

 通りかかった、日村より少し年配の男性職員は、杉崎というらしい。

「ああ、まあ、あの人はね……あ、失礼」

 自席の電話が鳴り出し、杉崎は急いで引き返してしまった。


「施設の立ち入りに行ってたんじゃなかったですか?」

 かわりに、日村の隣の席で、20代の女性職員がくるりと椅子を回して向き直った。ネームプレートには「堂島どうじま」とある。左手の薬指に指輪はない。

「いや、とっくに戻られたよ。で、……いつものように――」

 堂島の向かいの机で、30代に見える男性の職員がくすくす笑いながら応じた。腹部にぶら下がったネームプレートは、天板に隠れて見えない。

「――時間きっかりに」

「『お先に失礼します』を言い終えるのと、終業のチャイムが鳴り始めるタイミングを、きっかりそろえて?」

「……ああ、そういえば今日はそうじゃなかったな。珍しく、少し遅くなってたよ」

「あら、そんなこともあるんですか」

「電話が長引いてたみたい。といっても、ふっと見たときにはもう帰られたみたいで、いなくなってたんだけど」

「あらら」

「いや、熱心な人だよ。外勤には熱心なんだけどね」


 意味ありげに笑ったところで電話が鳴り出し、男性職員は素早く受話器を拾い上げた。夕方なのに忙しいんだな、と麗人は、室内を見回してひとりごちた。


 児童相談所もまた激務の機関である。世論が子どもの福祉や児童虐待に敏感になり、通報や相談の数が増える一方、地方自治体は財政難から予算や人員を削減している。少ない予算と人員で多くの仕事に対応しなくてはならないのだから、多忙になるのは自然なことである。その上、児童相談所で扱う問題はデリケートな内容が多い。職員たちは心身とも疲弊の極みにある。


 これ以上ここにいても仕方ないな、と感じた麗人は立ち上がった。できれば堂島サンを口説いてみたいところだが、今はそのタイミングではなさそうだ。

「出直します。明日でいいので、広田さんに、山田まで連絡くださいと伝えていただけますか。電話番号はご存じのはずなので」

 そんな連絡は絶対に来ない。

「もしかすると、オレの方からこちらにかけるかもしれませんが」

 かけることもないだろう。


「ごめんなさいね」

「お手数おかけしてすみませんでした。オレが言えることじゃないですけど、働きすぎて体壊さないでくださいね」

「あら、ありがとう」

 日村と堂島がにっこり笑って、ドアまで送ってくれた。日村サンの方は指輪してるけど、こっちもなかなかの魅力――麗人は最大限の愛想をふりまき、会釈して部屋を離れた。


 ――皆さん、ずいぶんとおしゃべりだった。部外者の前でああした言い方がつい出てしまうということは、日常的に広田は、そういう風に思われる勤務態度だということなのだろう。ストレスも大きく、ついこぼしたくなってしまったのかもしれない。広田が一連の事件に関わり始めたきっかけはやはり、少なくとも、純粋すぎる正義感、というわけではなさそうである。


 さて、どうしようか。こうなることも予想してはいたけれどね。麗人はポケットから懐中時計を引っ張り出した。レトロ趣味と言われる彼は、腕時計を好まず、試験などやむを得ない場合しか使わないのだ。


 ……はるかちゃんが向こうに着くまで、動きようがないかもな。バイクで片道1時間くらい、だったっけ。今のうちにできることって、あるかな。

 思案しつつ、道を急ぎながら、懐中時計のかわりにスマホを取り出し、耳に当てた。

「もしもし、カズちゃん? 児相行ってみたけど、広田サンいなかった。空振り。オレいっぺん寮帰って、そっち合流するわ。…………うん。……いや、……」

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