3.近づく嵐
21 態度の大きな小心者
「あー、タルィ」
運転席のドアを閉めると同時につぶやく。いつの間にか口癖になっていたフレーズだが、意味がないことも多い。
今日は定時ぴったりに出ることができなかった。「広田さんにかわってください」の電話が長引いてしまったのだ。そのせいで、灰色の雲の隙間から差す日光はだいぶ低くなっている。たるい。さっきの電話の相手、ルイに命じて叩きのめせないだろうか。……まあ、今日はルイを呼ぶ予定はないのだが。2日連続ではやらない方がいい、というのが広田の考えだった。
「あーあ、メンドクセエ。タルィ」
借りている駐車場を離れ、大通りに入る。ちょっと遅くなってしまったせいで、退勤時の渋滞に入り込んでしまった。
「タリィタリィタリィ」
車内をいいことにわめきちらし、エアコンの風量を上げる。ついでにオーディオのボリュームも上げる。アップテンポの曲ががんがんに鳴り響くが、広田の苛立ちを完全に解消してはくれない。蒸し暑いし帰りは遅れるし、同僚はみんなおれのことを仕事できない奴みたいな目で見やがる。この前、子育ての相談をしてきた電話を途中で「退勤時間になったから切ります」って切ったら、上司にめちゃくちゃ怒られた。なんでだ。終業時刻になったんだから帰っていいんだろうがよ。なんでこんなところに異動になっちまったんだ。
「あー、タリィタリィタリィタリィ」
音楽に負けない音量で張り上げる。歩道を歩いていく女が窓ガラス越しに、ぎょっとした顔でこちらを見ながら追い抜いて行った。聞こえたのだろうか。勝手に聞いてんじゃねえよ。そもそも歩行者のくせに、渋滞にはまった車を追い越して行くって何様だよ。戻って来て、土下座して謝れ。ていうか、今度あの女も、ルイに襲わせてやろうか。
ようやく渋滞を抜け、広田の車は快適よりやや危険寄りの速度で走り始めた。広田の住まいは、隣町との境界に近い、郊外のアパートである。電車もバスも不便な立地なので、車が欠かせない。自宅の最寄りとなる、建物がかたまっている辺りの小さなスーパーを横目で見ながら、通り過ぎる。アパートの駐車場に入ってから、買い物があることをようやく思い出した。
「クソッ」
がんがんに音楽が響く車内で、遠慮なく悪態をつく。ああ――もういいや。ルイを拾って、行きがけに買いに行けばいい。どうせ急いで向かう必要はないのだ。暗くなってからでなければ……。
広田はエンジンを止めた。明瞭に言語化できないいらだちを地面に吐き捨て、部屋へ戻ろうとして、空を見上げた。暮れかけた空は黄色い光に満たされているはずだが、厚く重い雲が大部分をさえぎっている。それでも夜中までは降らない予報だったが――。
いや。やっぱり今日やろう。明日は1日降り続くらしいから。雨の日はできない。ならば今日のうちにやっておいた方がいい。
広田はスマホを取り出しかけて、大っぴらにできる話ではなかったと思い直し、部屋へ急いだ。
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