2.セピア色の雨景

12 過去への小旅行

黒川くろかわ。……が、いないのか」

「欠席でーす」


 生物の教師がとる出席にそう補足したのは、珍しく学校の制服で登校してきた木坂きさか麗人れいとであった。というより、いよいよタキシードでの登下校を断念したのである。梅雨前線が呼び込むむわむわとした湿気は、ついに麗人に、合服で登校するという決断をもたらしたのだった……というか、もう半袖の夏服でもいいかもな、と麗人は心中につぶやいた。


 同じ頃、黒川もまた、珍しく制服を着ていた……こちらは夏の半袖だ。といっても、この男が規定通りに着るわけがない。半袖開襟シャツは開けっ放し、中に着たカーキのシャツをむき出しにした、かなり行儀の悪い着方である。スラックスの色柄は冬用と同じだが、夏服の生地は薄く通気性のよいものが選ばれている。黒川は裾を、やや短めに仕上げていた。長いと動きにくい気がする、というのが理由である。


 学校を欠席した男が制服を着て何をしているのかというと……彼の姿は電車の中にあった。普段あまり乗らない路線で、車内はほどほどに混んでいた。立ったままでいるのはいっこう平気な性質なので、窓ガラスに映った自分を、そしてもっと奥の風景を、ぼんやりと眺めていた。思考はさらに遠くへ投げ込んだまま。


 黒川には両親がいない。というより、物心ついたときには、彼は両親と引き離されていたのだ。父親も母親も生きてはいるらしいが、息子とは互いにそうと自覚してすれ違ったことはないだろうなと、黒川は思っている。幼い頃、ふと気づいたときには、彼は親戚の家に預けられていた。あからさまに、疎ましげな言動を投げつけてくる人々の家に。

 実際、黒川の存在は、親戚中で「厄介者」というポジションらしかった。半年から1年ほどの間で、無理やり別の親戚の家に押しつけられ、その繰り返しだった。ほとんどの家で歓迎されていないことを、黒川は小学生になる前に理解していた。自然転校が多く、友だちといえる関係は誰とも築けなかった。むしろいじめの対象にされていた。自分の存在に疑問を持っていた黒川はるか少年は、思い悩む、おとなしい子どもだった。学校で同級生にいじめられ、親戚の家に帰ればその家でいじめられ、――それが黒川の子ども時代だった。


 強くならなきゃだめだ。誰にも頼らず生きていけるように。自分の力で自分を守れるように。


 あるきっかけでそう考えるようになった黒川は、小学生の間、それまで通り気弱でおとなしい子どもを演じ続けた。一方で、近所の空手道場をこっそりのぞき見て、自己流で体をきたえ始めた。中学生になると、わかりやすく荒れた。高圧的で乱暴な言葉をまき散らした。そして夜な夜な繁華街に出かけ、喧嘩をふっかける相手を捜した。最初は酔っ払いを挑発して喧嘩を売っていたが、やがてそのあたりを縄張りにするチンピラや半グレの集団を相手に暴れるようになった。


 型どおりの武芸だけではだめだ。実戦で強くならなくては。


 そうやって黒川は、実戦の経験を積んでいき、経験をもとに技量を上げていったのである。首尾よく勝ったこともあったが、黒川はひとりだからなんといっても多勢に無勢で、こてんぱんにのされたことも多い。病院に搬送されたことも一度や二度ではない。それでも、怪我が治るとすぐまた喧嘩を吹っかけに来るこの中学生を、チンピラや半グレの方でも気味悪く思うようになっていった。たったひとりでガラの悪い集団に何度も殴りこんでくるなど、正気の沙汰ではない。当然、警察を通じて学校にも、保護宅となっている親戚の家にも、通報が何度も飛んだ。飽きるほど説教され、叱責されたが、黒川はなんの説得力も感じず、右から左へ聞き流した。


 おれの人生にこんな奴らはいらない。自分で自分を守る力を、手に入れなきゃならない。


 そのうち、チンピラや半グレ集団の方が黒川の挑発に乗らなくなった。黒川を「狂犬」とみなして、関わらない方がいいと判断したのである。黒川自身もまた、別の親戚の家に厄介払いされることになったが、転居先でもまた同じことを繰り返した。好きこのんで、地元のグループと揉めるのである。

 こうやって黒川のターゲットにされたグループの中には、暴力団がバックについているところもあった。だが暴力団は警察の取り締まりが厳しい。迂闊な行動に出ると、簡単にお縄を頂戴することになる。彼らも、傘下のグループに、「狂犬は相手にするな」とお触れを出した。相手が集団ならともかく、たかが中学生ひとりのために、組の存続をかけるわけにはいかないのだ。それに見たところ、あの中学生のガキはシマを乗っ取ろうとか、そういう意図で動いているわけではない。レベルは少々おかしいが、ただの喧嘩したがりだ。狂犬に噛まれたところで、相手にした方が悪いのである。


 こうした黒川少年の行状は当然、学校でも噂になり、彼と親しくつき合おうとする奴はひとりもいなかった。これも黒川には好都合だった。誰からも距離をとられれば、いじめられることもないのだから。

 中学に入って間もない頃に、ひとりの女子生徒と親しくなった。嫌いではなかった。一緒にいると少し、心が和む気がした。しかし、強くなりたいという衝動の方が強かった。わかりやすくガラと素行が悪くなった黒川から、女子生徒はやがて怖がるように去って行き、黒川もまた転校して、彼女と永久に離れることになった。今ではもう名前すら思い出せなくなってしまった。その程度だった。


 誰もいらない。他人と一緒にいるから、傷つけ合うことになる。誰とも離れていれば、傷つけられることもないし、うっかり傷つけなくてすむ。だから、誰もいらない。


 3年生のとき、それでも浅いつき合いがあった友人男子の影響で、飲酒と喫煙を覚えた。絵に描いたような踏み外し方だった。ただ、いわゆる古式ゆかしき日本語でいうところの「不純異性交遊」というやつだけは、気が進まなかった。興味はなくもなかったが、中学生で「そういう行為」に染まってしまうと、より一層やりきれない気持ちになってしまうであろうことは、なんとなく想像がついた。本当に、誰もいらなかったし、近づける気にもなれなかった。


 どうにかこうにか義務教育が終盤に差しかかると、親戚からは、寮があるという理由で明洋めいよう高校の受験を命じられた。黒川は大乗り気になった。寮に入れるなら、もう親戚の顔を拝まなくて済む。学費だけは出してやるとのことだった。親戚は、黒川がせめて高校は卒業し、就職して、「これまでの恩義に報いて」給与から仕送りしてくることを期待していたが、期待された当人にしてみれば見えすいていた――透き通るように。それを差し引いても、寮完備の高校に入ることは悪い話ではなかった。そして進学を果たすと、黒川本人と親戚の家と、どちらからともなく、関わりを遮断した。一応の身元責任者となっている親戚たちは、必要最小限の手続きや連絡さえ渋って、学校を困惑させた。そして黒川は現在、明洋高校を卒業するときが来たら、親戚や関係者に居どころを探られなくてすむ進路を検討しているという状態だった……。

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