13 棚から焼肉
ある駅で、
黒川はヘビースモーカーではない。数か月吸わなくても平気なこともある。吸いたくなるのは、考えてもどうにもならないことにとらわれてしまうときだった。自分の過去のこととか。あるいは、……。
「ちッ」
行儀悪く舌打ちすることで打ち切り、黒川は構内の商店街を通り過ぎた。しばらく来ないうちにだいぶ変わったものだ。屋外に出ると、迷うことなくロータリーのバス停に向かう。普段はきっちりまとめる髪も、今日はあまりかまわず最低限の手入れだけにした。サングラスを外しているのも、学校の制服を着たのも、バイクでなく電車で来たのも、全部作戦だ。
しばらくバスに揺られ、住宅街そばで下車して数分歩き、黒川はひとつの建物の前にたどり着いた。個人宅にしては大きい建物である。知らない間に、改修したり屋根や外壁を塗り直したようだ。黒川は気おくれすることなく入って行く。
「ごめんください、黒川と申します」
「ああ、黒川さんね。
人がよさそうな中年の女性に招じられ、黒川は靴を脱いで、スリッパを履いた。リフォームを経て、気持ちの良い空間になってはいるが、基本的な構造はほとんど変わっておらず、やはり懐かしい。
屋内は静かだった。子どもたちはみんな学校か仕事に行っているのだろう。階段を通りかかると、つい足がゆるんだ。――よく、悪ガキどもと一緒に、この手すりにまたがって滑り降りて、先生たちにお目玉食ってたんだよな。
応接間に通されると、初老の男性が立ち上がって、にこにこと黒川を迎え入れた。
「でかくなったなあ」
「先生、お元気でよかった」
そう応じる黒川の表情を、同級生が見たら目をむくに違いなかった。
案内してくれた女性は、ふたり分のコーヒーを用意して、引き下がった。ほどなくドアの向こうからかすかに、掃除機の音が聞こえてきた。
「今は、さっきの人が……」
「うん、私も歳をとったからね。ほとんどあの夫婦に引き継ぎした。何もしないといろいろとなまってしまいそうだから、まだ少し手伝いをさせてもらってるけどね。あくまで手伝いだよ」
男性――松下は、少しばかり寂しそうに下を向いた。
そうですか、とだけ応じて、黒川はコーヒーをひと口飲む。
「ところで、学校はどうした」
「たまにはサボりたくなりますって」
苦笑いを浮かべて、黒川はカップをソーサーに戻した。室内はほどよくエアコンの除湿が効いていて、ホットコーヒーを喉に通しても体が熱くなりすぎることはない。
いくつかの雑談に紛れて、ああそうだ、と黒川は思い出した。
「この前、ルイに――
「おお、ルイは元気にしとると思うよ。ええと、どうだったかな……ちょっと待ってね」
途中で松下は咳き込んだ。喉が乾燥してしまったのかもしれない。松下がコーヒーを飲む間に、離れた間合いから男性の声が聞こえてきた。おそらくふたり。何を言っているのかまではわからないが、どうやら別の客がいて、帰るところなのだろう。玄関ドアが開いて、閉まる。黒川はのんびりと、窓から裏庭の駐車場へ意識を送った。今しがた玄関から出て行ったらしい男性が、1台の白い自動車へと近づいて行く。
――黒川の表情は変わらなかったが、眼光が鋭くなってしまうのを隠ぺいするには、ゆっくりとまばたきをするしかなかった。
「松下先生、あれ、お笑い芸人ですか」
「ん?」
突拍子もないことを聞かれて、松下は黒川の目線を追い、男性客の後ろ姿を発見した。
「ああ。あれは、児童相談所の
――児童相談所。
「なんだ、お笑い芸人が営業に来たのかと思いました。ナントカいう芸人に似てませんか」
黒川の言い草に、松下が苦笑する。
「いやいや、広田さんはときどきここへ様子を見に来られるんだよ。週に1、2回くらいかな。真面目な方だ。今日は昼間だったけど、夕方の、子どもたちが帰って来た時間に来られることもあってね。子どもたちの様子にも気を遣ったり、話し相手になってくださることもある。……ええと、ルイのことだったね。ちょっと失礼」
松下はいったん部屋を出て行った。黒川は、外から気取られないよう、わずかに腰を浮かせて注視した。広田の乗る車がゆっくりと、駐車場を出ていくところだった。黒川はしっかりと、車の特徴とナンバーを覚え込んだ。
あれは……
しばらくのんびりと待っていると、松下が、管理人夫妻を連れて戻ってきて、黒川は改めて紹介を受けた。松下から情報を得て、いくつか雑談をまじえ、黒川は自然に辞去した。滞在時間は1時間をわずかに切る程度だった。ちょうどいい頃合いであっただろう。
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