10 眠れぬ夜は疑念を抱いて

「ちょーっとお待ちよ、そこのキレイなお姉さん」

 呼びかけとは裏腹に、麗人れいとは身軽に駆け寄る。顔を隠しているのにキレイとはどうかというツッコミは野暮というものだ。加害者とおぼしき人物ははっとして、すぐさま逃走に移った。判断が早い。しかも中途半端に距離がある。麗人は追おうとしたが、さすがに苦痛にうめく男性のそばを素通りするのに躊躇した。


「大丈夫ですか!」

 一馬かずま江平えびらが同時に、しゃがみこんで男性に声をかける。そのそばを黒川くろかわが走り抜けた。加害者は追跡の気配を察して、ちらりと振り返った。


「失礼、レディ」

 麗人は手首をひるがえした。指先から1枚のカードがはしる。一瞬で黒川を追い越し、加害者の顔を覆っていたストールを引っかける。ストールが崩れた。


「……っ!」

 突然、黒川が足をゆるめた――というより、透明な壁にぶつかりでもしたような動きだった。


 麗人はちらりと目線を動かすと、右手でスマホを取り出し、軽く振った。振ったとしか見えない動かし方だった。それから、黒川に駆け寄った。もはや加害者は大きく距離を引き離しており、落としそうになったストールをどうにか握りしめて、向こうの角を曲がってしまった。追いつくのは困難に見えたし、追跡する意思を無くしてしまっている黒川の方が気がかりだった。


 ある可能性を、麗人は小声でそっとたずねた。

はるかちゃん、知り合い……?」

「ルイ…………」

 女性が消えた方角を呆然とした様子で見つめたまま、黒川が口にしたのはそれだけだった。


 麗人は無言のまま振り返った。江平が男性に「ほかはどこが痛みますか」とたずねながら、持ち合わせた手ぬぐいを傷口に巻いている。一馬がスマホを耳に当てて、救急車を要請している。麗人が見やったのは、さらにその先だったが、彼が捜したものはすでに消えていた。まあそうだろうね、と麗人は小さく肩をすくめると、道路に落ちたカードを拾い上げた。

 ハートの6だった。


     〇


 当然ながら4人は、警察の事情聴取を受けることになった。さすがにこれは協力せざるを得ない。4人ともありのままを話した。クロッシィで遊んだ帰り道であったこと。たまたま現場に来合わせたこと。男性の様子、加害者と思しき女性の様子。武器。逃げられてしまったこと。


「ほかに何か、気づいたことはないかね」

「……今、思い当たるものはないです」

 黒川が断言した。それを聞いてから麗人も「オレもないですねぇ」と答えた。一馬と江平はそもそも男性の介抱にかかりきりになっていて、女性の方には注意を向ける余裕はまるでなかったので、首を横に振るしかなかった。


 被害に遭った男性の情報は伏せられていた。が、警察官と男性のやりとりや、警察官同士のささやきで「ご家族……」「元妻……」などの単語が漏れ聞こえてきた。子どもがいるであろうことも想像できた。


「遥ちゃん」

 警察から解放され、重そうな雲に8割方覆われた夜空の下、一馬や江平と別れた後、寮に近づいたあたりで麗人はようやく、本題に触れようとした。

「……確信がねえんだ」

 具体的な質問をするまでもなかった。彼らしくない、今夜の空以上に煮え切らない表情で、黒川は半ばひとりごとのように答えた。

「10年くらい会ってねえ。全然接触してねえし。今顔見たのも一瞬だったし。けど……あの目元……」


 揺れていることが、麗人には容易に見てとれた。今の年齢で10年前というなら、ガキの頃だ。顔つきがかなり変わっていてもおかしくない。それでも……あの一瞬で、思い出したのだ。

 事件に関わっている――それも犯人として――とは、信じたくないのが、当然の思いだろう。

 黒川は合理的な考えの持ち主だが、感情がないという意味ではない。麗人はそのことを、他の人よりも少しは理解しているつもりだった。


 寮には電話をして、事件に遭遇したこと、警察の捜査に協力したことを説明しておいた。さらに警察からも直接連絡が入っていたので、門限破りについては罰則はなく、形式的な小言をくらうだけですんだ。それだけが、せめてもの救いだった――きちんと時系列を整理して考えれば、彼らが事件に遭遇したのは門限を過ぎてからだということが、はっきりわかるはずだったが、もちろんそんな説明をする気は、麗人にも黒川にもなかった。

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