200×年 6月のある週 月曜日

「はぁ? 友達とカラオケ?」


お昼の時間になった。

その日の話題は自然に、学生時代何をして遊んでいたかという話題だった。

私は問われるままに、友達と買い物やカラオケに行ったりしていたというとショー子さんがぽかんとした顔をした。

なんだかわからないけどまた空気を悪くしたようだ。

気まずい。

パスポート事件の時と同じだ。

仙波さんが

「そういえば前、三井さんの家行った時CDいっぱいあったね」

と言った。

ショー子さんが

「え…CD…?」

と不思議そうに言った。


いつもこうだ。

好きなファーストフードは何?という話題が出て、マック、ロッテリア、モス…と定番が出たが、私は地元の最寄り駅にあったフレッシュネスバーガーとファーストキッチンが好きだと言うとみんなぽかんとした顔でこっちを見る。

何言ってんだこいつ、という顔で。

ようは、このあたりではなじみのない店名を口にしてしまったから異分子扱いされたということだ。

波風を立てないためには余計な事は言わない。

沈黙は金。

私がこの地に来て学んだ事はこれだ。




その日の午後である。

あと1時間でだるい仕事も終わりだとほっとした頃、ショー子さんが話しかけてきた。

「三井さん」

「はい?なんでしょうか」

「今夜、うちにご飯食べにに来ない?」

「え?」

「母に、会社に面白い人がいるって言ったら母もぜひ三井さんを見たいって」

…面白い人…。

一体どんな紹介をしたんだか。

正直言って気は引ける。

断りたい。

だが学生時代のアルバイト以下の薄給では1円でも節約したいところである。

それに新人がチーフの誘いを無下にするのもいかがなものか。

やむを得ない。

波風を立ててはいけない。


夕方五時半。

仕事が終わった後、私はショー子さんの軽自動車に乗せてもらってショー子さんの家に向かった。

意外にも(といっては失礼だが)ショー子さんの家は県道沿いにある、普通に今風な一戸建てだった。

どうでもいいことだがおうちの向かいにコンビニがあったのは意外だった。

お向かいにあるのにコンビニに行った事なかったの?

いや、もしかして最近出来たのかもしれない。

余計な勘繰りはいけない。

ショー子さんに案内されて、私は家の中に通された。

中もわりと綺麗だった。

奥からショー子さんのお母さんらしき人が出て来た。

「初めまして。三井ともうしま…」

ショー子さんのお母さんはいきなり私の襟に手をかけた。

「襟が曲がってる。よそさまのお宅にお邪魔するんだからちゃんとしなさい」

と言いながら私の襟やら胸元やらをいきなり直し始めた。

まあ、会社に来る年配の女性のお客さんにいつもこうされてるのでもう慣れた。

ショー子さんのお母さんは

「コートはそこにかけなさい」

とコート掛けを指さしてぷいっといなくなってしまった。

なにも熱烈な歓迎を受けるとは思ってはいなかったが、ぜひ会いたい、という話はどこに行ったんだ。

ショー子さんは、さぁさぁとリビングに私を案内した。


リビングでは、さきほど消えたショー子さんのお母さんが寝っ転がってこっちにおしりを向けてサスペンスドラマを見ていた。

客が来てるのに寝っ転がってドラマ…?

初対面の私に、ちゃんとしなさいって言っておいて…?

いやいやいや、もしかしたら腰が悪いとか事情があるのかもしれない。

そのとき、ブッ、という鈍い音がした。

え…?

ショー子さんのお母さんは寝っ転がったままボリボリとおしりを搔いている。

また、ブブッ、と音がした。

お、おなら…?

友達のお母さんが人前で寝っ転がって堂々とこんなことするなんて…

特に私の母は寝室以外の所で寝っ転がるのを「一番行儀が悪い事」と嫌っていたので信じられなかった。

お母さんの隣には、背中を丸めたおばあさんがいた。

「おばあちゃんよ」

ショー子さんが紹介した。

私が挨拶と自己紹介をするとショート子さんのおばあさんは私をまじまじと見た。

本当にここの人達は人をまじまじと見る。

「…いいえぇ」

いいえ?

「あたしゃあ疎開から帰って以来ずっとここに住んどりますが、あんたさんのような方、見た事もありません…」

という会話になってない会話から始まった。

「あたしゃあ兄と弟と一緒に玉音放送を聞いとりました…」

「戦争が終わってからはね、別の町に行っとったんです。見合いなんです。雪が凄うて凄うて」

歴史の教科書みたいな話をボソボソと聞き取りづらい声で続けられた。

しかも声が小さいうえに実際は方言ばかりなのでほぼ何を言ってるのかわからなかった。

ショー子さんは私を放置してどこかに行ってしまった。

ショー子さんのお母さんは相変わらず寝っ転がっておしりをボリボリ掻きながらサスペンスドラマを見ている。

また、ブッ、とおならした。

私は延々おばあさんの方言まじりの歴史の教科書みたいな話を聞かされた。

私はなんでこんなところでこんなことしてるんだろう…

逃げたい…

普通のバラエティ番組とか月9ドラマ、映画とか見たい…

legacyの曲聴きたい…

意識が遠のいていく。

私は、お手洗い借ります、と逃げた。


お手洗いから出たとたん、いきなりショー子さんに叱られた。

「三井さん!!」

「え?」

「だめじゃん、ぼさっとして!」

ショー子さんが私のおしりをばしっ、とたたいた。

え…おしり…たたくって…あり?

「おばあちゃん外に出てるよ!」

ええっ、とそれまで寝っ転がっていたショー子さんのお母さんが飛び上がった。

「んっもぉーーー…何やってんのよー!!!あいかわらずほんっとに頼りにならないんだからー!!」

え?

あ…あいかわらず?

私、ショー子さんのお母さんと会った事あったっけ?

ショー子さんは耳元で

「おばあちゃんよ、おばあちゃん!!」

と声変わりしてない小学生みたいな声でわめいた。

耳障りだ。

なんの話だ?

「ちゃんと見とかないとだめでしょ!もー!ほら、ぼさっとしてないで行って!」

え?

え?

「わ、私がおばあちゃんを見てないといけないんですか?」

かろうじてそう言うと

「こういうことはね、それぐらい、言われなくてもわかるようにならないとだめよ」

とショー子さんのお母さんにたしなめるように言われた。

「何も言われてませんけど…」

「言われなくても覚える!仕事と同じ!」

バシッとショー子さんがまた私のおしりを叩いた。

驚きが勝って怒る気もわかない。

仙波さんの「気付かなくてもやる」と同じか。

そんなこと言われてもあんな年の離れたお年寄りの相手は無理だとなんとか伝えると、

「仕方ないなぁ、じゃあカレー作って」

と台所に連れてこられた。

私が…作るの?と問うと

「大丈夫よ、手伝うから」

と何が大丈夫なのかわからない事を言われた。


逆らう気力もなくとりあえずカレーを作った。

おばあさんはショー子さんのお母さんが引きずって帰ってきた。

自分で言うのもなんだが、私はそこまで料理が下手ではない。

たぶん。

共働きの両親が忙しい時は簡単な料理なら自分で作ったしなかでもカレーぐらいなら人並に作れる。

なにより今は毎日自炊している。

しかし私が包丁を手に持った途端ショー子さんのお母さんが

「だめよそんな持ち方!貸しなさい!」

と私の手から包丁をもぎ取ろうとした。

刃先がこっちを向いた。

「ったく、あんたあいかわらず危なっかしいのよ!ほんとにもう、何も知らないんだから!!」

さっきも思ったけど、私、ショー子さんのお母さんと、以前どこかで会ったっけ?

どういう風に危なっかしいのかは説明はなかった。

結局作ったはいいけど「これじゃだめよ」「自炊してるんじゃないの?いつもお弁当なのに」しか言われなかった。

私のにんじんの切り方が乱切りなのがだめなんだそうだ。

ショー子さんの家はカレーのにんじんはいちょう切りが基本らしい。

知るか。

我が家はシチューもカレーもビーフシチューも、スープ系は全部乱切りだったんだ。



味のわからないカレーを食べた後、ショー子さんが私に聞いて来た。

「そろそろ打ち明けて欲しいな」

打ち明ける?

何を?と聞くと

「三井さんの事」

とニコニコ顔で言われた。

三井さんのこと、と漠然と言われても…

「研修の時に言われたでしょう。心のモヤモヤを、ちゃんと打ち明けて」

と笑顔で返された。

研修って、あのむちゃくちゃな土下座研修か…。

ろくなやり方の説明もなしに、討論のまねごとを強制されて…

思い出したくもない…

「私もね…犬を飼ってたの。」

聞いてもいないのにショー子さんは話し出した。

「でもね、その犬が…私が高2のとき死んじゃって…私、ずっとそのモヤモヤを引きずってて…そんなときに、私が入社したときの研修でそれを吐き出しなさい、全部受け止めてやるぞって上司に言われて、みんなの前で泣きながら吐き出したら……今まで体験したことないぐらいスッとしたの」

それでスッとするってどうなの。

なんで研修で死んだペットの話なんかしなきゃいけないんだ。

なんで研修で死んだ身内の――


死んだ身内―――

死んだ―――

両親――



いけない―――

あれは―――

あれは私のせいじゃない!!



「心のモヤモヤを吐き出して泣き合えば、人は分かりあえるのよ。これをみんなが行えば、戦争だって世界からなくなるんだから」

ショー子さんて宗教でもやってるのかな…

私は、心のモヤモヤなんて何も無いです、というとショー子さんは、まあ急がないからねと言った。

日本語なのに会話になっていない。



テレビではまた殺人事件と不倫のドラマをやっている。

「じゃあさ、三井さんはふだんどんなテレビ見てるの?」

ショー子さんが話題を変えた。

音楽番組とかです、と答えた。

「あー、吹奏楽部だったの?」

と言われた。

「音楽番組ってNHKのクラシックのとかでしょ」

「いや、ミュージックポータルとかそんなんです」

「ミュ…え?なにそれ?」

あ、ミュージックポータルもこっちではやってないのか。

ショー子さんは怪しむような顔でじっとこっちを見て

「あなたんち本当にテレビあるの?」

と聞いた。

社宅にはないと言うと

「いや、社宅の話じゃなくて、ご実家」

と言われた。

ありますよテレビぐらい…と答えたがショー子さん親子は怪しむような顔でふーんふーんと不思議そうにつぶやいた。

ショー子さんのおばあちゃんは勝手に寝てしまった。

「そういえば三井さんて、オンバイケンも知らかったよね」

とショー子さんが言うとショー子さんのお母さんはうっそ!と大声で驚いた。

「オンバイケンなんて普通にテレビに出るじゃない。ほら、今やってるサスペンスにだってよく出るのに」

オンバイケンは全国ネットのテレビにも出る有名な何かなのか…

一体何なんだろう。



なんとなく空気が微妙になった。

しばらくしてショー子さんがいきなり言った。

「私、来年20になったら入籍するの。仕事は続けるけどね」

まるで小中学生みたいでいつもノーメイクでふだんまったく浮いた話をしないショー子さんが婚約していた。

それも驚いたがそれ以上に驚いたのはショー子さんが私より年下だったことだ。

それを言うとショー子さんは

「え?…三井さん、いくつ?」

と目をまんまるにして聞いて来た。

いま20歳と答えるとショー子さんはまんまるい目をさらに見張ってこう言った。

「…え?なんで?あ、浪人してたの?」

浪人?

「だって高校卒業して2年も何してたの。就職浪人?あ、それとも高校を浪人したの?」

なんでそこで浪人という発想になるんだろう。

自分には縁の無い話だけど留学や病気とかで卒業の時期がずれる事もあるだろうに。

私が高校を卒業して短大に進学した事を話すと

「は…? 短大って、大学のこと?」

ショー子さんが素っ頓狂な声で叫び

「いや…なんでそんなとこ行ったの…?」

と、本音で呆れたような声で言った。

そんなところとはなんだ。

勉強したい資格があったし行きたい大学があったからと答えると、

「ふーん?」

「ふーん?」

親子で同じ表情で不思議がられた。

ショー子さんのお母さんが言った。

「でも、女の子が、それも○○県立大でもない大学なんかで何をするの? ご両親、お金の使い方ご存知ないの?」

こんなきょとんとした無邪気な顔で言われたら何も言えない。

ショー子さんが言った。

「そういえば三井さんちって海外旅行に行ける家だっけ。それじゃまぁ…仕方ないよねえ…」

なんだか哀れまれてるみたいだ。

海外と聞いた途端ショー子さんのお母さんは顔をしかめた。

「え? 外国…? やだ、そんなとこで何をするの?」

そんなとこで何をするの?

最初にショー子さんにコンビニやカフェの事を聞いた時もこうだったな。

「だいたい三井さんて英語話せるの? なんか英語話してよ、外国行ったんでしょ」

英語が通じない国だってごまんとあるんだが…

現地の人と話す機会はなかったですし通訳の人もいましたから、と言うと、ショー子さん母娘は、えー通訳って…と不思議そうに顔を合わせた。

「やっぱお嬢様ってどっか変わった人が多いのね」

お嬢様とかとんでもない、うちなんてただの貧乏人だというと

「えーっ!貧乏なのー!?」

ショー子さんが笑顔から一転、真顔で叫んだ。

「貧乏ならもっと考えてお金使わないとダメじゃないの!コンビニなんか行ったりCD買ったり、何考えてるの!」

そのあとも私がCDを買う事、休みの日に友達と服や文房具を買いに行った事を色々「ありえない」と叱られた。

「こないだドラッグストアに行った時言ったじゃない、もうコンビニなんか行っちゃだめよって」

さらにショー子さんのお母さんはとんでもない提案をしてきた。

「ねえ、服が無くてわざわざ買いに行かなきゃいけないほど困ってるならおばさんが格安で作ってあげようか。私、これでも昔和装やってたから」

「ぜひそうしてあげてよお母さん。お母さんのお裁縫の腕はすごいんだよ」

私はこれ以上状況があさっての方向に発展しないよう説明した。

学校の近くにコンビニがあったこと、学生はみんな利用していたこと、自分もそこでお昼ご飯を買ったり同じ洋楽が好きだとわかった友達と仲良くなる事があった事、休日に友達と服を買うなんて珍しい事ではなかったとを話した。

しかし話せば話すほど事態は悪くなるだけだった。

ショー子さんは私の話を聞いている間も腕を組んで

「それって本当の友達って言うのかなぁ…?」とか

「そんなことって本当にあるのかなぁ…」とか

「クラスの子とカラオケ? わざわざ休みの日に友達と買い物? しかも文房具を? 服も? そんなこと本当にありえるのかなぁ…」とか

「休みの日に友達と遊園地?友達と映画?高校生にもなって…?」とか

と本当に本当に不思議そうにツッコんだ。

ショー子さんのお母さんも困ったような笑顔で

「ちょっと聞かないわねぇ」と不思議そうに不思議そうに言う。

私がおかしいのだろうか。

しまいにはショー子さんのお母さんは

「そもそもその高校、本当にあるの? 言っちゃなんだけど、あなたの夢じゃないの?」

とまで言った。

ショー子さんは「それよりももっと、悩んでること、ない?」と執拗に悩みを聞きたがった。

本当はある。

こっちに来て色々戸惑った。

地下鉄は全国にあると思ってたから地下鉄が無い県があるなんて思わなかった。

こんなに公共交通機関の少ない所があるなんて思わなかった。

番組だって少ないし、こんなに遊ぶところが少ないなんて――

言い出したらきりがない。

でもそれを言ったらただの嫌な奴でしかない。

どうせそれを言ったところでどうせ返ってくるのは「地下鉄なんかで何をするの?」だろう。

もう帰ろうかと思ったが逆らう気力も削られて今の私は気力も体力もゼロだった。

結局夜も泊る事になった。

パジャマも貸してあげるよと言われたが何となくそれは嫌だったので私服のまま寝た。



夜になった。


寝つけない。

パジャマじゃないせいか、寝づらい。

下着だけでも替えたいなぁ。

「…ぁぁぁん…ぁぁぁん…」

………

「…ぁぁぁん…ぁぁぁん…」

うるさい…

あれ、猫が鳴く季節じゃない筈だけど…

「ちゃあああん…おにいちゃあああん…」

…ん? 人の声?

「ほら三井さん!」

いきなり布団をはがされた。

いきなり電気がついた。

寒い。眩しい。

「おばあちゃんは時々子供の時の事を思い出すんだよ!ほら!」

それと私と何の関係が…

「何回言ったらわかるの!ぼさっとしてないでってば!」

え? え?

おばあさんは、かぁちゃんかぁちゃんといいながら泣きながら暴れていた。

まさか…私にこの状況をどうにかしろと?

「わ、私、わかりませ」

「覚えてください!」

ばしっ!と背中を叩かれた。

仕事の時と同じような叱られ方だ。

おかあちゃああん、とおばあさんが私につかみかかってくる。

足がもつれる。

老人独特の口臭。

吐きそう。

転びそうになった。

キャーーッ!!とショー子さんのお母さんが物凄い悲鳴を上げた。

「あんた何やってんの!!」

え?

こんな状況でもなんとかおばあさんをしっかり支えたのに何が…

「畳のヘリ踏んじゃだめでしょー!!畳のヘリっていうのはねー!!」

た…畳のへり?

ショー子さんのお母さんは畳のヘリ畳のヘリと泣きわめきながら私の背中をバシバシ叩いた。

痛い。

痛いよ、お母さん、お父さん…

ショー子さんは、早くおばあちゃんを、ほら三井さん、ほら、とがなりたてる。

「かあちゃん、かあちゃん、こわいよぅ、こわいよぅ、爆弾がお空からいっぱい降ってくるよう、かあちゃん、かあちゃああん」

「ほら三井さんてば!」

「畳のヘリと親の頭は」

「かあちゃん、にいちゃん」

ばしばしと叩かれる背中や頭。

痛い。痛い。

そのとき、どこからかドスンドスンと音がした。

何か重たいものが近づいてくる。

スパーン!とすごい音でふすまが開いた。

廊下の電気の光が目に刺さる。

そこには白いシャツと白いパンツ一丁のおじさんが仁王立ちしていた。

逆光なので顔は見えない。

パンツ…トランクスじゃなくてブリーフだけで、その上に物凄い重量のおなかが乗ってる。

例えるならお相撲さんと打ち上げられた深海魚を足したような生き物だ。

うちの父だってもういい年のおじさんだけど、いつもボクサーパンツかステテコだしブリーフましてや下着姿で人前に出るなんて絶対しないのに…

「うるさい!」

ブリーフのおじさんが腕を組んで低い声で怒鳴った。

でっぷりしたおじさんのおなかが揺れた。

そのときショー子さんが「ごめんお父さん、三井さんがしっかりしないから」と私の背中をバシッ!とまた叩いた。

でっぷりおじさん…ショー子さんのお父さんは私を睨みつけて怒鳴った。


「ちゃんとしろ!!バァウ!!」


バウ?

バウって何?

驚いてる間もなく私の顔に唾が飛んだ。

大人の男の人に至近距離でこんな大声で怒鳴られるのはあの研修以来だ。

たちまち私は震えあがってしまった。

ショー子さんのお母さんが、この子ったら畳のヘリを踏んだのよ!と私を指さして言った。

この間のファミレスの事を思い出した。

両親も幼稚園の先生も、人を指さすのはとても失礼な事だって言ってた。

畳のヘリと聞いた途端、ショー子さんのお父さんはすごい目つきで私を睨んでまた「バァゥ!!」と犬みたいな声で吠えた。

だからバウって何?

もうやだ。

なんでこうなったんだ?

私はただ会社の人に夕飯を食べに来ないかと言われただけだ。

そのとき、おばあさんが、おばあさんが着ているパジャマの下部分をごそごそといじくりだした。

水の音がした。

トイレの匂いがした。

ああ、おばあちゃん、ここでしちゃったんだ…

その瞬間、

「バァゥ!!」

とショー子さんのお父さんが叫んだ。

かと思うとショー子さんのお父さんがショー子さんのお母さんの顔をパーの手でぶった。

次にその手でショー子さんをぶった。

その手はそのままこっちに来た。

私も殴られる―――

私は身がすくんで思わず縮こまった。

ショー子さんのお父さんの手が空をかすった。

「バァ!!」

私がよけた事が気に食わなかったのか、ショー子さんのお父さんがひときわ大きな声で吠えた。

そしてまた手を構えた。

今度はパーじゃなかった。

……グーだ。

私は

私は

私は枕もとに置いていた荷物を夢中でひっつかみ、ショー子さんのお父さんの身体のわきをすり抜けて逃げた。

夢中で走った。

玄関のドアにぶつかる。

幸い友達の家と同じ構造の鍵だった。

急いでドアを開けて外に転がる。

パジャマ借りてなくて良かったとつくづく思った。

「ちょっと三井さん!」「畳のヘリ!!」「バアッ!バウッ!!」という声が背中にぶつかる。

そのまま土地勘のない暗い夜道を必死で走った。


もう何時間も走ったような感覚だ。

途中何度も携帯が鳴った。

ショー子さんからだった。

電源ごと切った。

ようやく見つけたタクシーに乗り込んだ。

運転手のおじさんが「大丈夫ですか?」「あの…良かったら警察に行きましょうか?」と何度も何度も心配そうに聞いて来た。

私の様子はよっぽどおかしかったんだろう。


家に帰った途端、気絶した。

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